「出産方面」: 物語の物語が物語で。

2010年11月8日月曜日

物語の物語が物語で。

ごぶさたしておりました。ようやっとネットを繋ぎました。
やはり不便でした。あまりにも情報難民。
電子辞書すら壊れていて、これ、言葉がどうでもよくなってたけど、
だめですね。岩波国語辞典引きながら、物語を書いていた。
仕事をし汗をかき文字を書いてた日々。
どうでもいいわけないだろう。

物語、300枚って言われてたのに420枚までいってしまい、先日お別れしました。
高校一年生の主人公が二年生になって、そこまでしか見守ることができなかった。
さみしいよ。
どうかどうか、笑っていてください。その先の物語を生きてください。

そして200枚までにしようと思っているもう一つ、君は、どうした。
どうしてそんなに、物語を拒否するの。

テレビもネットもない状態で、しかたなし、もとめるがまま私はこの数ヶ月、
物語を漂った。物語について考えたし、物語を書いたし、物語を生きていた。

物語。私たちを分節し、解体し、規制し、説明するもの。
「ほんとうのこと」ではないのかもしれない。
ただ私たちを解説しやすい言葉の地層に、私たち自身が自らを当てはめてしまうだけなのかもしれない。
それでも、物語でしか語れないものがある。
私はこの件に関し、いくつか感動していたのでした。

映画
『悪人』
は皆さんご覧になりましたか。
私は二度、観ました。
大阪の国立国際美術館でやっていた<束芋>に足を運んだのがきっかけでした。
束芋の「断面の世代」という表現がひっかかってしかたなかったのでした。
団塊ジュニアである作者による、「団塊」に対する「断面」。
われわれの時代は、塊にはなれない。面でしかない。連帯も個人主義も貫けないならどうすりゃいいのか。
「団地層」「団段」という集合住宅をモチーフにした映像を見て、激しく揺れました。
個人的なコトを言えば、書いていた物語に「公団」を扱っていた、という事情もあるかもしれない。
いやしかし、そんなことじゃなく、インスタレーションだのアートだの言ってる物事が、こんなにもアクチュアリティを持ちえるのだ、という感動が大きかった。
そんなもん、語れません。
機会があったら、ぜひ多くの人に「参加」してほしい展覧会でした。
暑いさなか、これにまず二度足を運び、原稿は100枚くらいすすめつつ、汗をかきんと冷やされながら見入っていました。
そうして束芋による新聞連載『悪人』の挿絵に感銘をうけ、どんな物語なのだろうと興味を覚え本を読み、どんな映像になるのだろう、と映画を観たわけです。
美術館→書物→映画館、私は心に素直に旅をしました。

ほんらい語りようがないものを、これだけの媒体をつかって語ろうとする行為。物語が語られつくされたように思える現代社会のなかで、それでも物語が派生する以前のなにごとかを、語ること。
歴史は、いま、ここで、なんども出産されている。

「二人とも被害者にはなれないから」『悪人』吉田修一

本を人に貸しているので、例のごとくソースが曖昧ですが、この言葉。
純愛、犯罪、逃避行。
この物語の豊かさは枝葉の広がりを持っているけれども、
私はこの一言を「見たい」がために何度も何度も思い返したのです。

様々な事件、出来事が毎日毎日情報となって届けられる今日にあって「悪い人」はいなくちゃなんない。
実際、殺人者は悪い人です。
疑う余地もないんだろう。生い立ちも環境も関係ないんだろう。
物語る前にわかってしまっているこのコトを題材にしながら、きちんと被害者であるために加害者を探すということ、れっきとした加害者であることを引き受けること、でも誰もが加害者であり被害者でありその加害者であり被害者であり・・・・・・。
本当に悪い事ってなんだろうっていうの、今やんわりと時代が要請しているテーマだと思ってます。
それは別に、物事を複雑系に落としこんで混乱させるためじゃなく、例えば、被害者として怒る事、バカにすんなよ必死に生きてきたんだ、と言う事のためにだって。そういうシンプルな戦いのためにだって。あるいは、俺はやっぱり悪い人なんだと、ひれふすためにだって。

善悪の彼岸は、わからない。でもいつまでも、わからないわからない言ってはいられない。
じゃ、どう向き合えばいいんだろう。難しいよ、やっぱわかんないよ。
でも美術と小説と映画を享受しながら、私は同時に、現実を、私という物語に登場してくれた人の言葉を思い返していたのでした。
善悪の彼岸について語り合った時、大切な友人と交わした言葉。いや友人がくれた言葉だよな。
プライベート流出、やくそくどおり「いつか」は使わせてもらったよ。

「君は間違ってないよ。世の中も間違ってないよ。
 人と人、人と社会がどうしても相容れないとき
 相対的にどちらかが善悪を当てはめられているだけだと思うよ。
 極論だけどね。
 合ってるとか間違ってるとかじゃなくて、どうしようもないこと沢山あるよね。
 社会的成否で世界はバランスをとってて、個人もそうだと思うよ。
 あんまり思い詰めないで。
 君は存在からして間違いじゃないから。
 ただバランスをとるのが苦手なだけだよ。
 おやすみ。」

読書をまったくしない、もうそろそろ10年来になるこの友達は、いつも「極論」を言う。
でもこれって極論か? 私は彼の言葉をときどき、直感的に「本物」だ、と思う。正しいか間違ってるかじゃない。彼という実人生の物語が生み出した本物なんだって思うのです。
しょっちゅう何事かを思いつめてる私ごときがこの時いったい何を思いつめてたなんてことはどうでもいい。じっさい忘れちゃったし。
でも、この言葉は忘れない、と思いました。そして、別の物語とめぐり合ったとき鮮やかに蘇ったのです。
記憶力のない、というかそもそも記憶という機能が壊れてませんかという私をして、諳んじられるほど繰り返した言葉の羅列。それだけのことなのに、それだけのことがこんなにも。本当にありがとう。

映画『悪人』は一度目を一人で、二度目を人と一緒に行きました。
一緒に見た人が
「素直な見方をすれば、誰も救われない物語、だよね。なのになんでか暗い気持ちにならない」と。
そう、なぜだか少し元気になる。きみょうに、やってやらなくちゃってなる。
80年代、90年代、ゼロ年代、もう随分前から、私たちは「戦う対象を喪失した」のだと言われてきた。
シュミット的に「政治なるもの」が、敵と友の峻別なのだとしたら、政治的なものなんてもうとっくに崩壊しちゃってるよ、なんだかなぁだよってなっちゃう。
そして「塊」になれない、「面」だけを漂う私たちの孤独の、なんとも言えない砂っぽさ。

でもさ、それももう古くない?
うちら、そんな醒めた視線で余裕こいてなんてられなくない?
くやしい、さみしい、やるせない、でも、頑張るんだって、ちょっと暑苦しいものがふつふつ湧いてこない?

これが何年代の感覚か、なんて知らんよ。わからないです。
でも<束芋>の世界にも、『悪人』の映画にも、不思議な懐かしさを感じました。
知らない時代、という懐かしさ。
あれら表現の、物語の、怒りと優しさと暑苦しさとうっとおしさと、むかつくけど頑張ろかいなの感覚。
これ、たぶん新しい時代の古さ、なんだと私、感動しました。

 

5 件のコメント:

  1. 悪人、よかったです。だれが悪いって誰か悪いんだけど、
    ぼんぼん大学生も被害者なのかな。なんのだろう?

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  2. 深津ちゃんも良かったけど、つまぶき、びっくり。かっこよくなってましたね、姉さんのいうとおり。

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  3. おはようございます。えっと、ていうか、ひろ&みさはニコイチにしていいわけかな。
    で、君ら深夜にそれぞれコメントて・・・どういう。まいいか、久しぶり!ありがとう。
    うんうん、増尾だよね。あれさ、私はもう一人の友達の方を描きたいがためのデフォルメキャラ、という気もしてます。どうかな?

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  4. sary子も醒めたような視線はもう違うなと思っておるでよ。もっと必死こいてる汗まみれ。でないとその先にいけんような気がする。

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  5. sary子はずっと戦う女の子だからね。戦う女の子が私は大好きです。先へ行くのだ!

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