「出産方面」

2012年5月30日水曜日

蜘蛛の糸、タイトロープ、綱引き



★90年代

90年代のはじめだったか半ばだったか終わりだったか、いとうせいこうが以下のような内容のことをどこかに書いていた。 

「テクノロジーが進化すればするほど、人間は、より人間らしさ、を求めていくのではないか」

というようなことを。

 どこに書いていたのか記憶に無く、『ノーライフキング』のあとがきだったかしらんと本をめくってみたけれど、どうやら違うようだ。 しかしどこに書いていたかは大した問題ではない。そして氏がいつ頃からか、ベランダで植物を育てているのか、ボタニカルが氏自身にどのような必然性があったのかも、同様に。

 『ノーライフキング』という作品の概要は、ゲーム世界からリアルワールドに広がる「噂」の中で子供たちが翻弄され、都市的サバイバルのただ中に放り込まれるというものだった。そして、物語の映画版ラストで、生まれたての赤ん坊を前にした小学生が、「新しいリアル」と呟いたのが、印象的だった。


★新しいリアルってなんだ?

この本を読んだり、映画を観ながら、しばし興奮を味わった。何かが変わる、かも知れない、というようなことを言っている書物なり映画なり、は刹那の興奮を呼び覚ます。エロより変化。これがある種の人間には、なんらかの物質を分泌させるのかも知れない。

しかしそのアドレナリンだかドーパミンだかの物質作用は、せいぜい一分か二分くらいのものだった。何故なら、90年代とは、新しいリアルに希望を見いだせるほどおめでたい時代ではなかったのだから。
「新しいリアル」とひとりごちた少年同様子供だった私は、新しいリアルが来るのか、それはいったいなんなのか、どう新しいのかといったことよりも、今ここの閉塞感と暗さに埋もれている自分を、まずどうにかしなければと思っていた。暗かった。

あの暗さ。あらためて言うまでもないが、阪神で大きな地震があり、かぶりものをして踊る新興宗教団体が、サブカル的マンガ的犯罪で世の中に稚拙な闘いを挑み、敗れ、にっちもさっちもいかない法が整備され、中学生が子供をあやめたという「事件」が矢継ぎ早に情報として降ってきた時代。
どこもかしこも非現実か現実か、マンガか実写か区別不能な中で、思春期という台風のような季節をやり過ごさねばなかった。暗かった。
ある社会学者は「まったりとした日常」を生きろ、と言った。私は、少しもまったりなんかしてないわ、殺伐ですわ、と思っていたし、実際、終わりなき日常のフラットさにうんざりしていたのではない。戦闘的な日常の中で、まったりなどしていたら、やられる、という危機感のほうが強かった。暗かった。

★暗さからのコペルニクス的転回

15年だかの時間が過ぎ、あの時代からお話にならない速度で発達した高度情報化社会がコペ転を起こすのか、という一抹の希望。それをここ数年考えてきたのだけれど、じっさい、わからない。
人間はどんな時代でもなにかに一抹の希望を託してきた。時には信仰、時には宗教、時には科学、時には産業、時には革命、エトセトラ。
私も人間である以上、希望は託す。個人的なレベルでは仕事や創作や守るべき夫、友人、そして愛、愛。主観的世界ではあるが、相対的な現実である。
けれども公共有世界をも思う時、相対性は変わらないまでも、主客は混ざる。
この生きている世界への希望を「世界は美しい」という、真実ではあるけれども残酷でもある言葉で片付けるには、言葉はたぶん、あまりにも言葉すぎるのだろう。
だから、今こうしていじくり回しているWEBにも希望があり、それがもしかしたら「新しいリアル」とかいうものなのかも知れないという問いをどうにかするためには、ただのユーザーとしてではなく、あるときはメタユーザー、ある時はネタユーザー、ある時は壊れたユーザーとして向きあってみたかったのだった。
それは例えば「ソーシャルネットワークと現代」みたいな本を読むことだけではなく、わりと技術的な面も大きいのではないのだろうか。道具の何たるかは、道具を使う人間より作る人間により理解をもたらす。なので、も少し突っ込んで、いろんなものをいじくり回そうとしていたところ冬になってしまったので、結局PCを道具として小説を書き、考えちゃう論考を読むという行為に終始していた。
しかし、道具を使い道具に使われるただのユーザーだからこそ、混乱にまみれ、わかったような気になることだってあるのだ。
これは言い訳ではない。かも。

★で、テクノロジーが進化すれば人間は人間らしくなるのか

という命題に関しては、ある点で正しかったと言える。それが希望かどうかは別として。
3.11が起きた時、確かにTwitterは「役に立つ」ツールだった。避難所や安否や被害状況、支援の伝達を、いち早く、有益にまわすことができた、というシステムは勿論、「みんなが」あるいは「多くの人が」協力的だったからだと、私は思っている。
危機的状況の中で、バトンを渡していく、それがソーシャルで小さなメディアの大きな連帯になる、と、人間であるがゆえに希望を託す一人である私は、ポジティブな柔らかいしっぽをつかんだ気がした。
けれども、今はどうだろう。
ネットワークは世の中のシステムに関する様々なネタバレを達成した。しかし、ネットワークによってネットワーク自身もまたネタバレしていく中、人間は、人間らしくなっているのだろうか。
あまりにも人間らしい、というのが今のところ私の答えである。
誰だって騙されたくなどない、誰だってバカにされたくなどない。その憤怒を廻すツールとして、ソーシャルネットワークが細分化し、アングラ化しているのかという判断よりも、一人ひとりのその声は、紛れもなく人間の声であろう。機械を通して聞こえてくる声。

私はなんだか9月の段階で一度しんどくなった。ので、被災地を訪れた。

なにがしんどかったのかはうまく言えない。まだ冬にはなっていなかった。けれども、テレビも新聞もWEBもなにもかも、なんだか見ていることが、おこがましいような、引き裂かれる気持ちがあった。

ツイッターで、ある方がこんな事をおっしゃっていた。
「現実にとって辛いことは、小説にとってもつらい、だから書くことはできないだろう。それができてしまう詩人の無神経さにはうんざりする」というような事を。

おこがましい、という気持ちが私にとって、あるいはそれを聞く人にとって、無神経なのかどうかもわからない。ただ、新しいか新しくないか以前に、「経験していない」ことの無力さと、やるせなさ、それを確かめたくて行ったのかもしれない。

支援という大義より、落とし所が欲しかったのだとしたら、そんなものは、どこにもなかった。そしてFBやここに写真をのせることにすら、おこがましさを感じている。

そして、私が3.11的なものを小説に書けないとしても、私が無神経ではないという証にはならない。論理的にも、感覚的にも。おこがましさとは、論理と感情の壁を破るし、経験と想像力の、温厚な関係にも水をさす。

しかし、この溢れかえる言葉の中で、「知識」を増やし、理解し、誤解し、対立し、落ち込み、共感し、交感し、罵倒し合う状況は、それほど新しくはないがリアルではある。いや、これら全てが情報の速度の中でループし、混乱していくのは、あまりにも人間的ではないか。人間は機械ほど、早くなれないのだ。
もしかしたら人間は「新しく」、もなれないのかも知れない。

そして私は「バカっていう奴がバカなんだぜ」というノーライフキング的小学生の言葉を思い出しながら、やはり、人間だな、と思うのである。

2011年11月7日月曜日

名前をつけようか、私は迷う。

ブログタイトルは今読んでいる、フランソワーズ・サガンの伝記的なもの、『サガンという生き方』山口路子 新人物文庫 (2010)から。

「ものうさと甘さがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名前をつけようか、私は迷う」

サガンの『悲しみよ こんにちは』の冒頭文章です。
なんとなく記憶があるけれど、サガンを読んだのは中学生くらいのことです。前述の文庫、そんなに分厚くもない小さな文庫だけれども、光の中でくるりと回し眺めると、カバー装丁にラメのような輝く何かが紙に混ざっていて、それだけで手にとってしまった本。本棚から『悲しみよ こんにちは』をさがしてみたけれど、見当たらない。
それくらい、過去の読書の朧気な記憶は、その後数々の移動と遍歴の中でどこかに紛れてしまったのかな。
正直サガンの事を思い出すのは、サルトルを思い出すついでみたいなものだったし、人生のなんやかやと対面してしまうと、よく云われるサガン批評として「ブルジョアジーの描く恋愛と人生文学」みたいな気もしていました。13歳くらいの頃の、甘いもの好きな過去、となってしまっていたことも事実。
ミスドのドーナツを丸ごと一個はもう食べられないよみたいな。
ていうか自分もともと甘いもの苦手だったよねとか。

なので、タイトルも引用も孫引きです。

でもやっぱり、細胞のどこかでは時々甘く、それでいて辛辣なものを求めているのかも知れません。

小説を2007年から書き始め、正味二三年しか集中出来なかったけれど、最近いよいよ面白くなってきたのです。ネガもポジも両サイドの意味で引き裂かれる心というのを自由に泳がせて着地させる、その大地が白い画面、あるいは白い紙の上にあるということを、功名心でも自己実現でもなく感じるようになるとは、正直始めた頃には思っていなかったので。

などと、こんな吐露はどうでもいい話。何でもいいから何かをしたいのではなく、これをするのが最もなのだという最もぶりは結局のところ、「これ」をする行為だけでしかないのであって。

なわけで、「これ」をした発表媒体としての破滅派八号を宣伝いたしますよ!


青井橘「緒の国」
断絶しながら繋がる小さな島々。一つの島を統べる者は選ばれた人間だった。彼らもまた絶たれながら結び合おうとしているのか。分裂した場所に浮かぶ人間の孤独と共存。

その他の内容のご案内はこちら

文学フリマは11月3日、すでに終わっているので後追い宣伝です。もうほんとにね、何をやっても遅い私です。生きてます。
毎回騒いでいるように、文学フリマはお祭りでもあって、こういうことの好きな、沢山の人達が来場する、そんな場があること自体楽しい事なんだけれども。

そこそこ売っていきたい雑誌としては、ガチで宣伝したします。各書店販売もしておりますが、とりあえず、こちらの販売ポータルサイトをご案内します。

今なら送料無料とかのウワサを聞きました!

2011年9月3日土曜日

電書で残暑

こんにちは! 台風です。残暑です。電書です。
破滅派から電子書籍「ロマネスク」が発売されました。





私の新作は「スワン・ソング」です。是非ご高覧のほどを。

App Store へのリンクはこちらです。

破滅派のお知らせページはこちら

各種SNSを使っている私ですが、ブログでも宣伝。
TwitterのRTが他にも反映されると便利なのですが、というのは別の話。

取り急ぎ宣伝です! 宜しくお願いします。

2011年8月24日水曜日

夏の骨

骨盤というのは、むろん骨です。
最近なんやか広告で「骨盤ダイエットでマイナス18キロ」とか見かけますが、何ダイエットにせよ20キロもの肉なり脂肪なりが身体からなくなるって、どんな感覚なのでしょうね。いったい骨盤をどうすればそんなことになるのか詳しく見てないですが、どちらにせよ新たな身体に慣れるまでの違和感、それは想像に難く、体験してみたいとも思います。
しかし今の私から18キロも減らしたら、貧乳はともかく、肋骨でいろんなモノが洗えてしまいそうですので、憧れの豊満さを入手してから手放すことは考えようかと。手に入れたいと欲したり手放したいと望んだり、まったくワガママなことです。

しかし身体とは何であるか。頭とか脳みそとか心とかが各自ひとつしか持てないということと同じくらい、生き物に各自ひとつしかボディがないということについて、疑問と感慨が同時多発してしまいます。『マルコビッチの穴』とパーマンのコピーロボットの事を考えて、時折同じ姿勢で二時間くらい座ってることがあるのですが、そんなんだから骨盤が歪む。

プロテインでふくらませ筋肉プロテクターを強化しても、黄色い脂肪を食事制限で減らしても、骨は骨。そして骨盤は骨。骨は硬い。しかし骨盤が歪むとかいうのんは、骨盤という名称でくくられた沢山の小さい骨の集合体がどうにかなるわけではなく、周囲の筋肉が硬くなったり伸びたり縮んだりしているんだよと、中医の先生に教えてもらいました。

実は三年くらい前から肩甲骨に言い知れぬ痛みが走るようになり、慢性化しそうな気配だったのですが、去年の夏はマックスひどかったです。左側の肩甲骨から始まって首、背中が、こう、ピキッと。最終的には左足まで電気が走るようになり、やばい、これでは右側人間になってしまうと思ったのか思わなかったのか。仕事がたて込んでいて、仕事なのだからそれはなんらかの職業病的症状が出るのは覚悟してました。どんな仕事でも、反復と継続の条件が揃ってしまうと色んな症状が出てきますよね。
一日13時間立ち仕事をしていた頃には、足のむくみとはんぱない生理痛。
いきなり実務に使わないといけなくなった建築CADソフトと毎日8時間向き合っていたときには、眼性疲労と頭痛。あと建物をみると自動的に平面図と立面図と展開図が頭の中でくるくる回るという幻覚に襲われてもいました。
ひたすら調査&文書作成していた時期は、目の中で、文字が虫のごとく這い回っていたし。
肉体労働もデスクワークも、身体にとっては過酷です。家事労働も含めると、人って身体を使てなにかをし、疲労し、蓄積し、やがて痛みや重みとなり、使っていた身体に心を使われる。

と書くとペシミスティックですし、別に身体二元論をとっているわけではないのですが、身体が痛い時って、身体がすっごい勢いでなんか喋ってくる、説教してくる、懇願してくる、脅迫してくる、とは感じます。
去年の夏は、一日中誰かが耳元で「オレ身体っす、痛いっす、やばいっす」とささやいてるようなものでした。フライパン持つたび左腕がもげるかという痛み以上に、そんな声がきこえてしまうと、別の意味でタイヘンな事になる。

色々身体を使っているうち、根本的な問題は骨盤の歪みから来てるのだと思ったわけです。だってあなた、私のハイヒールってば基本が10センチ高だし、仕事のことは細かく言いませんが、文章書いてる時の姿勢の悪さ、なにか文句あるんですかくらい組む足、これで歪んでなかったら、私の身体はゴムかガムか。

そんなわけで去年の夏の苦痛は、ヨーガに加え、鍼灸、中医を取り入れて乗り切りました。
で、今年。睡眠の質が良くなったからか、ストレッチの内容を改善したからか、だいぶ楽になったけれど、やっぱりちょっと痛い。時々けっこう痛い。
去年のアレに舞い戻らないように、針はちょこちょこ行っていたのだけれど、東ばかり見てないで西もどうだと整形外科に行ってきましたよ。

注:イメージです。©入ってます。

私ハタチ頃にめちゃくちゃな事故にあっているのですが、事故の記憶が曖昧でどんだけのキカイに写真取られたか覚えてません。とりあえず骨は問題なかったのだけれど、今でも左足には15センチ程の裂傷痕があります。だから左側が痛くなるのだ、左足の骨は折れなかったけど縮んでるとか、背骨なり腰椎なり頚椎なり、左側が歪んでいて、その歪みが肩甲骨や骨盤を引っ張っているのだとかいう物語が、整形外科の待合室のツルッとした茶色いソファに座る頃には、プロットまで構成されていましたよ。
で、意識不明ではない状態で、バッチリあらゆるところのレントゲンをとられました。さぁこれでわかるやろ、どこがどのように歪んでいるのかが!左側の秘密が!
と期待してたのですが、めちゃくちゃまっすぐです、とお医者さん談。旦那を待合室で二時間待たせた挙句に。
でもまっすぐすぎて、逆に首とか痛めやすいらしいです。まったく骨というのも、メンドクサイ人ですね。
あと「骨盤の歪み」というのは、整形外科ではわからないということがわかりました。先の中医の先生が言うように、多くは骨の問題じゃないってことなんでしょうね。

できたらこんな骨に生まれてきたかった。

猫の骨 注:イメージですって。中国のサイトで販売してました。

なんか骨少なくない?そもそも骨盤というものじたいも人間ほど複雑じゃなさそうで、歪むもなにもなさそうで、うらやましいな。

しかしこっからやり直そうというのは、母の胎内から出てしまった以上、無理な話。
人間はゴムでもガムでもないのだという現実をうけいれて、あ、こっちのお尻硬くなってる、とかいうのんを、身体と心にお問い合わせする毎日です。

2011年7月19日火曜日

インアウト、東京から東京へ。

毎回毎回びびると言うのも芸がないけれど、またもやひと月、気がつけば七月も後半。びびってます。
誰に謝るべきなのかわからないけれど、とりあえずごめんなさい。

先日調べ物してたら「アクセスの伸びるブログの書き方」みたいなサイトにたまたまぶち当たったのですが、更新遅いのと内容が散漫なのはもう論外みたいですね。べつにそんなこと知りたくなかったのですし、もちろん気にしませんが。
このブログはネットの海を漂う手作りの筏、そう、椰子の実と蟹を食べてしのいでいた無人島から、ちょっと海原へ出てみようかしらと、流木を集めて南洋植物の繊維で編んだロープで作ったすかすかの筏。
波に流されてどこかに辿り着くか、それはまた別の無人島なのか、先史以降発見されなかった新しい原住民、という語義矛盾した存在の暮らす未知の島なのか、いやはやどこにも流れつくことなく、ただ海を漂ううちに揺れているのは海なのか自分なのかわからなくなって干からび朽ちるのか。そんなことは知りませんが、とにかくこういう長ったらしい文章が駄目らしいです。はいはいわかりました。

まぁ実際、本来は小説の内容に反映さすべき事を書きすぎ、という具体的指摘は謙虚かつ真摯に受けていますが。

6月末の暑さからなし崩しのひと月、何やってたか何から書いたらいいのかわからないので、とりあえず前回更新の直後のそう、文学フリマ、6月12日。

前回は行けなかったくせにアレほどTLで騒いでたわけで、今回は行ったがゆえのスルー、はないですもちろん。
だってとっても楽しかったんだもん。会いたかった人に会えたとか、思わぬ出会いがあったとか、イベント自体の面白さとか、入手した本の面白さとかほんとに色々あるけれど、とりあえず、破滅派は面白い。誰がどう何がどう、そういうことが知りたい人は破滅派その他、読むべきもの触れるべきものが沢山です。早くしないとこの世界から紙も文字もなくなっちゃうかもよ。いやそれより、人生という時間ですね。紙と文字の上を流れる時の長さと比べたら、人生はあまりにも、短い。

ブースの内側にスイカと紙幣が見え隠れ。他ブース回ったりビール飲んだりしてたので、これしか写真とってないけど活気がありました。みんな製本もクオリティ高いし、特に今回、上手いだけじゃなく伝わってくるものがたくさんあるイラストレーションを描ける人間がこれほどいるのだという現実に改めて感心しました。何が商業ベースなのかオルタナティブなのかインディペンデントなのか。

でいきなり、今月、ていうかこの三連休です。
旦那のバンドVAMPIRE!、高円寺のUFOクラブで予定していたライブが、あの、3月11日の翌日だったわけで延期。今月17日にやっと振り替えでした。関東方面までどうせ交通費かかるなら勿体無いから小田原で降りて湯河原へ、温泉に行っちゃって飲み過ぎちゃって、でも二日酔いなどさらっと通りすぎて、ハイセンスな物を書き音源もつくっちゃう、ハイセンス過ぎて嫉妬もしない方と夕方明るいうちから焼酎飲んでましたけどね。

そのハイセンス氏とライブハウスへ。身内贔屓にもほどがありますが、バンパ、かっこ良かった。日常を共に暮らす人間がステージで非日常を表現してくれるというの、楽しいんですよね。ギター持ってない時のあの人が普段どれほど(いやこれ以上は言うまい)。

ライブ後もまた飲みに行って、7月17日は京都では祇園祭、私は海ぶどうを一日2回食べるはめになったという稀有な日であったことはまだあまり知られていません。15日に友達の誕生日を祝って以降、財布の紐がユルユルで人に奢りまくり、饗しまくる『饗応夫人』のようになっていましたが、決して泣いたり怯えたりなどしていない事も付け加えておこう。人を饗し破滅するものまた私らしいのであります。おはめつ。

翌日18日は浅草に行って。

ビニール袋で守られた子供。


金色のアレとスカイツリー。

浅草の純喫茶のステンド。

東京に仕事で行ってた頃は、だいたい建材や家具の展示会とか見本市とか建築関係のシンポだったり、時々人ごみで倒れたりで、苦手意識があったけど、6月7月の再訪のおかげで、東京が楽しくなった。目的があったり用事があったりというのもそうだけど、土地、場所、人、変わらないことと変わることがある。変化に付き合っていくこと、変化を楽しみ愛すること。それが私とあなたと世界との和解。きっとこれからも、苦手だった場所を愛したり、すれ違った誰かに再会することもあるのでしょう。

孤独な筏の上から見える海原には、沢山の、形の違う船や筏が、揺れながら漂っていますから。

2011年6月10日金曜日

さよならせずに手放しても。

ネットに漂っているテキストの事です。

ふわふわと漂っているものを持ち歩いて生活するのは不便です。
綿あめだったらべとつくし、タンポポの綿毛だったら風で消える。
ずっと持っていないと飛んでいってしまうし、かといって実用的じゃないし。
宙に浮いた赤い風船を持ったまま電車に乗るのはけっこう面倒なんですよ。
邪魔だし、周囲にはいいトシこいて風船かよって顔で見られるし。
それでもなんだか、手放せない。そういうガラクタが沢山あるわけだけれど。
それがいかに宝物かなんて、大声で言うのは恥知らずなことでしょう。

具体的には、このブログのサイドに恥ずかしげに貼ってある、大学時代の日記、のことなんですけど。

まだウェブログ、というのがそんなに一般的じゃなかった頃、2002年の大学入学年に始めたものなんですが、6月いっぱいでサイト停止するんですよね。

かなり恥ずかしいと思っているのに貼っている自分が時々信じられないくらいだったので、そういう「サイトの都合」みたいな事情でリンク出来なくなるのは受動的で気が楽です。

ネットという媒体に個人的日記を載せるのに迷いつつ、でも今みたいに私の名前検索したらヒットするなんていう状況でもなかったので、友人や読んでほしい人へのメールにアドレス添付する、としてました。このブログを作成するとき、そういえばネットの海に漂ってるのがあるなぁと思って貼っていたのですが、訪問履歴とか消えていたけどそんなに気にならなかったです。

こういうの、沢山の人が持ってると思うんですよね。日記サイトやってた人も沢山いただろうし、今様々あるブログも閉じたり新たに開設したりして、個人的な履歴を色々持ってる人が沢山。そういうのってみんなどうしてるのかな。

ていうか、日記とか日記のようなものって、どうしてるんだろう、みんな。
私は捨てられないんですよね。
中学生くらいから日記を書いていて、さすがにそれは今手元にないけれど、大学ノートに書いていた高校生の頃のものも、手書きの大学時代のものも、読もうと思えば今すぐ読める場所に保管してあります。

過去、自分がいかに「その時」を捏造しようとしていたのか今見直したいなと思うことがあります。
「本当のこと」なんて、日記にすら書けないのだから。
本来的な意味で言うなら、過去の履歴とは三年前の3月15日の天気はどうだったか、自分は何を食べたとか誰と会ったとか何時に寝たとか、事実の羅列の事だと思います。けれど私は主観で塩漬けしてから書き始める人間だし、感傷の砂糖にまぶしてから転がしちゃうわけです。つまりそれは嘘なんだけれど、精一杯嘘をついて「その時」を過ごそうとした中に、後になって見るとちょびっとだけ「本当のこと」に色形が似ているものがある。
私、それを見返して、今の自分が今まで生きてこれたからって信じ込もうとしているセオリーにツッコミを入れたいんです。
私は私を正当化したい。だから今を正当化したい。けれど正しいかどうかなんてことは他者との間において相対的なものでしかなく、今の私を過去の私という他者が批判することもあるわけです。というか批判せざるをえない。そうしなければ。

「汚れた大人」になってしまうんだぜ!!

私はできるだけ大人であろうとしています。というか今でも本当にガキなのでなんとかしたい。
でもそれは諦めることでも汚れることでもない。
素直なまま、大人になりたい。素直、とは、嘘を嘘として、きちんと弄べることです。弄ぶとは大切にするということです。

サイトが消えてしまう前に、ほんの少しだけ、その大切なものについて記しておこうと思います。

大学に入ったとき、講義をうけて何度も泣きそうになりました。いや、実際に泣いたこともなります。それは別に、レヴィナスの他者論に感動したとか、西田の絶対無に煽られたとかではなく。
泣きながら友達に電話をしました。
「なぁすごいで、世の中にはこういう場所があんねん! なんで生きてるのとか世界はなんなんとかいうことを真剣に考えて、考えてる事言っても怒られない、そういうとこがあんねんて。すごいすごい、わたし、感動した! すごい嬉しい! 考えてもいいし、考えてるって言っても良かったんや!」

別にこれは揶揄でもなんでもなく、とってもとっても嬉しかった。

それからもう一つ。
大学に入る以前から私には心のなかで勝手に尊敬している人が何人かいましたし、その人達は今でも尊敬しています。でも尊敬とか憧れとかって、口には出せない。何故かといえば私が尊敬する人は過去の偉人ではなく今現在生きている人だから。今生きていて、変化し、これからも生きていくであろう人を一方的に尊敬するのは、私の幻想であなたを規定しました、という告白です。実際私はその人達を規定しているのだろうけれど、それを言うのはなんだか相手に申し訳ない。だってその人達はこれからも沢山変化していくだろうし、その時迷ったり立ち止まったりもする、ある一人の人間だから。私はその人をわかりきることなどない。ただ変化し、移ろっていくことそれ自体を尊敬できる、たとえ私とは意見の異なる選択をしたとしても、敬意を払えるということ、それが私の尊敬の念です。だから私は片想いの恋のように、そっと尊敬の気持ちを胸に秘め、自分が迷ったとき、こういう時あの人ならどうするかな、と勝手に想像する訳です。そんな身勝手を相手に告白し、共有を強制はできないし、そんなふうに尊敬する人を規定したくないんです。

そんな関係、これからも尊敬し続けることのできる友人に出会えたということ。
そのうちの一人。
「わたくしが死ぬまでお前も生きろ。そうすればお前が死ぬまでわたくしも生きるであろう」
こう言い放った友人との権力相互行使的関係を保ちつつ、精神的心中をしないため、生きていかねば。

言葉の完全性を追求して口を閉ざし、相手を幻想の中に留めるのではない。
私は誤解しかされず、私も誤解しかできない。共同の夢を見ることは出来ない。
私には私の、あなたにはあなたの夢しか見られないということを確認するために会話をする。
それは夢ではなく現実です。ここで繋がるとはそういうことなのかもしれない。
夢の中に生きているのにわざわざ夢を見つめようとするのではなく、今眼の前にあるこの世界が全てだということ。

この空が、この風が、この草木が、唯一の夢であり現実で、それを語るには取りこぼすものがありすぎるがゆえ、私たちはこれからも会話をするのであろう。
こういう会話をしたという記憶の記録という、事実の羅列ではない、なにか日記のようなもの。それがあれでした。

大学を卒業する直前、2007年に小説を初めて書いてみてから最近まで悩んでいたことがあります。
私は私の主観性を批判し、それでも主観を手放さず「わたし」を主語にしながら、さらには客観性をもたなければならない、ということです。沢山揺らいでましたし、今も揺らいでいるのだけれど、そのなにか、日記のようなものが消えるにあたって読み返してみて、ちょびっと気がつけたというわけです。

大学に行ったことは学歴はもちろん、仕事とかそういった面ではほとんど役に立っていません。でも大切な時間でした。
サイトが消えたら、私はもう、その大切なモノを大切だと看板さげとく呪縛から逃れられ、そっと心の中におりたたんでおけるということが、ちょっぴりさみしく、そして嬉しいです。

2011年5月21日土曜日

イミテーション・ビューティー

ああもうびっくりした。気がついたら五月も半ばを過ぎているじゃないですか。
仕事したり小説新しいのに手を出したり友達と遊んだり旦那と遊んだり、ぐたっとしているうちにこれですよ。

ブログに引越しうんちゃらの事書くと言ってから随分時間が経ってしまいましたが、頭の中でこねくり回しすぎて引越し小説が書けそうなので、ブログの方ではもうちょっと別ネタで。
まぁ引越し作業完全終了して、人様をお招き出来る状態になったので、お友達も来てくれて結局飲んでるみたいな日々なんですが、以前旦那の物量にうんざりして八つ当たり(いや正当だよ)して怯えさせて、ミュージシャンの持ち物を断捨離させてきました。なので大分ましだったのだけど、私、今回は自分のモノの多さに一度心がボキボキに折れて、半裸でベッドに横たわりシクシクしちゃいましたよ。
収納とか整理整頓は得意なんです。だから普段はそう見えないんだけど、引越しってそういう目をそらしてきた事実が、白日のもとにさらされるじゃないですか。
しかしエロい格好でシクシクしたって、古本や古着が「自分ここに収まっときますねー」「あ、じゃわたしはこちらで」とか言って、ものすごいチームワーク発揮してくれるわけもなく。涙を拭いて立ち上がり、片付けましたよ。片付けまくりました。

部屋の構成とか配置とかインテリアに関しては私に一任されています。「空間把握能力高いよね!」と以前から旦那に褒められているのですが、ていうかインテリアデザインは本業だったし。でも褒められて伸びるタイプなんで、機嫌よくなります。だいたい超理系の旦那に「観念!」とか「情緒!」とか「諸行無常!」とかいうゴリ押しの理論(理論以前)以外で上に立てるのは気分がよろしい。化学記号の話とかはスルーです。日本語も英語もワカリマセンていう顔します。

さて、私の舵取りで片付け、間接照明その他を配置できる状態になって、改めて、心底、気がついたのですが。

私、なんでこんなに造花沢山もってるの?







家のいたるところが造花(主に薔薇)で飾り立てられていくにつれ、こんな美輪明宏的、ウテナ的空間に、ロックオヤジは耐えてこられたのかと。しかしそこは「全然平気(ニコッ)」で解決。

そうなると新たな疑問。私は何故こんなに造花が好きなのか?という疑問が湧いてきてですね。
そもそも造花ってなんやねん、ていうことで調べちゃったりして。こういう事してるから時間が……。人生という砂時計が。

まず最初に見たかった本が、東京造花工業協同組合『明治百年と造花の歩み』(1968年) というものなのですが、これが古書扱いだわ図書館にはないわコレクター価格だわで。これ買うなら100均で薔薇の造花を200本買います。でも読みたいのでなんとか探す。最終国会図書館に行く。

で次に手にとったのが1926年創業の大西造花装飾株式会社という会社の社史 『花のあしあと 大西造花四十五年史』(1970)。これがなかなかナイスでして。創業者(たしか)のステキアングルな写真からはじまり、創業太閤記や戦前戦後の造花事情、「ホンコンフラワー」のCMアーカイブなど、画像資料もふんだんでした。中でも昭和39年に朝日テレビ「女性専科」で社長が野際陽子と造花について対談していた!とか観たいですよ、映像残ってないかな。

あとすごかったのが『新造花術』渡辺玉潤著 文港堂 (明治42)
著者の名前すら読めず戸惑いましたが「ぎょくじゅん」さんです。
一、造花の女子に趣味あり且高尚なる技術なることは今更述ぶるを要せず、、、、
という冒頭の例文から迫力満点でさらにたじろぎました。でもめげずにページをそろそろめくっていくと、花の挿絵が満載で、ようするに、素晴らしい造花を作りたいなら花をがっつり観察しなきゃいけないけど、精密な挿絵も載せといたから参考にしてね、何なら型紙使ってがんばって作ってね、みたいな事でした。

あとは、どうやら飯田深雪さんという人がその世界では著名なようで、造花教室やってたりアートフラワーアレンジメントなんかを紹介している本もいくつかありましたね。なんかお医者さんのお嬢さんで外交官と結婚して絵画をたしなんだそうです。文字通り絵に書いたようなサロン文化としての側面を見せつけられました。ぶっちゃけ震えます。
で、この方が書いたこれまた造花の作り方や型紙がふんだんの『造花ーその技術と応用』婦人画報社(昭和33年)という本。
「野に咲く美しい花を見て、誰がつんで自分の身にさしたいと思わない婦人があるでしょうか。花を飾ることは優しい婦人の本能として、神が与えた習性でしょう。」(p12)
とか、
「花の多い家に生まれた私は、花は柔らかい雰囲気をもつ美しいものなのに、なぜ造花はあのようにカサカサして、色も味わいがないのかしらと子供心に残念に思っていました。どうにかして私のこころにある花を表現してみたいと、ひとりで布地を縫いちぢめては本当の花の感じを出したりして楽しんでいました。それが何年か後にヨーロッパ人のパーティーに着てゆくドレスにも楽しくつけて行けるようになるまで自然に成長して、私が二十八歳の頃英国貴族(当時の印度大総督)の大正餐に招待された時に、フランス製の黒い夜会服に極く薄いピンクと白の手製のばらを、肩から腰までつけて出席しましたら、その日のホステスの公爵夫人から非常に褒められました。」(まえがき)
とか、とっても腹立つ優雅な文章が散見され、またもや震えが止まりませんでした。
神って…。しかも造花の考案は「夢に現れる不思議な啓示によって作られた」そうで、電波系エレガントな文化のあり様に、マジで指先震えました。

さて、もうすでに充分ずれてますが、これ以上話が脱線してく前にぎりぎりの線で本題に戻します。もう崖っぷちですが、ここまで読んでくださった方には感謝と敬意を表しつつ、要するに造花とは。

「一般的造花は自然の花がすぐにしぼんで長期の装飾用にならないのでこれに似せて人造の草木の花や葉をつくったもので、宮中や殿中の宝飾、神仏の祭事、民間の婚礼、祭礼などにさし花や飾花として古くから用いられていた。文化年(1804―1818)には、宮中の御用造花師がいたことがわかっている。民間用の造花師で、婚礼用造花専門家もいたようだ。明治時代に入って江戸風の造花は蓬莱(ほうらい)や高砂(たかさご)の台に飾られた。」(IBPC大阪ネットワークセンターによる、国内マーケットにおける造花についてのざくっとしたまとめより)ということです。

ホンコンフラワーは名前通り香港で作られ、60年代に日本でも沢山輸入されていたようですが、それ以前から「作り物の偽物の花」はあったということです。

で、ですね。
でも、ですよ。
私が造花を好きなのは結局、「偽物だから」という、もう、ほんましょうもない理由だったということを、こうやって資料さぐりつつ実感してるわけで、もうこれ、ほんと身も蓋もない理由ですが、真実なんです。

宝石でもなんでも、イミテーションってステキなんですよ。本物ではないけれど、そのもの自身ではある。誰がそれを否定できようか。それオマエがお金無いからだろとかいう無粋なツッコミをする前に、私たちの身の回りにある数々の偽物をもう一度、ご覧になってください。造花しかり、コスチュームジュエリーしかり、ていうか私食品サンプルすら愛してますから。

偽物のけなげさ。
偽物だけが持つ、美しさと儚さ。
偽物は偽物という本物なのです。

自然の花より長く生きるかもしれないけれど、造花だってやがては朽ちていきます。だって物質だから。
私の家を飾ってくれる偽物の薔薇、古いものから散りかけていこうとしています。それは造花の構造が理由でもあるのだけれど、花びらが散っていくのと同じように、だんだんと色あせ、花弁を開ききってしまおうとしています。

アンティークとか骨董とかに付随した価値を感じない私は、むしろ、こんなふうに名もなく大量生産されたものが最後まで名前をつけられず失われていく事に、感動と感傷を持ちます。私の持ち物は、インテリアも服も装飾品も60年代から70年代のものが殆どですが、10年以上好みが変わっていないです。ヴィンテージとかじゃなく、量産品でチープで、でも一つ一つはやはりただそれだけの、たったひとつのものだという感じ、これが大好きなんですよ。

はい。自分の長文に自分で目がくらんできましたが、もうちょっとだけ。

鉢植えのハーブほど雑草感のない、生花に区切られた時の短さは残酷すぎて、切り花より道端に咲いてる花の方が好きだけど、めぐり合った生花との短い時間を、時々は共有してみたりもしていますよ。