「出産方面」: 9月 2009

2009年9月30日水曜日

連載二回目 長い一日

破滅的破滅派、連載第二回目
『喫茶エリザベート』(2)

開始しております。

それはいいんだけど、

ある程度生きると一日が一ヶ月が一年がはやい、とか言うはずだけども、
リア王、というのがリアルが充実してることとは知らなかった。
知らないことだらけで一日の長い青井橘。

できれば、美しいことだけ知って生きていきたかった、
最近、汚れ、を知った幼き青井橘。

そんな感じでよろしく。

2009年9月20日日曜日

やまだないとのうしろめたさにうしろめたい。









少し前に、やまだないと『家族生活』を読みました。で最近もう一回読みました。

好きな漫画家だけど、やまだないと、と、山本直樹、は移動中とか外のどこかとかいう場所で読めない漫画家です。景色とか、音とか、人の流れとか、とにかく周囲が動く気配の中で読めない。何もない、真空のような場所、そんな場所が世界にあるのならばだけれど、そんな場所で読みたい二人です。
覚醒しているけれど気が付かないふりをしている、という意味で似ているのに、その「ふり」の方向が違う。
山本直樹は覚醒している。醒めているあの目は、怖い。山本直樹の描く目に、私はぞっとします。登場人物たちの置かれた世界、この場合特に『ビリーバーズ』と『安住の地』で描かれている世界の事を言うんだけれども、すっと冷たい乾いた目であの世界の中に存在できる、しているという事が怖いのか。時々見せる目の暴力が怖いのか。いや怖いのではない、やるせないのか。
信じる、ということの怖い部分が細い線で描かれた目に、常に安住していて、時々それがはっとするほど強い残酷さでもって、睨んでくるのです。一瞬の視線が出ると、ほんとうはこいつら、何も信じてなどいないのかもしれん、と思います。信じてない事まで覚醒して、その上で「ふり」をしているのではないかと思うのです。で、「ふり」をしている自分を封印すると、人は、あんな目になるんではないかと。

けれど、やまだないとの「気が付かないふり」は、ふりをしていることに自覚的だから、もう少し悲しい。
「気が付かないふり」というより「知らないふり」に近いのかも。

だってほらお二人とも……求めたものが同じじゃない。家族って名前の共犯者……
                                      『家族生活』

『家族生活』は、血の繋がった家族と結べなかった者が、血の繋がっていない者と切り離せない関係を結ぶという話で、その意味において登場人物のほとんどが、何らかの形で「共犯者」です。ある者がある者と共犯でありたいと望み、ドッキングしたり、あるいは拒まれたり。
上の言葉を出した人物は、拒まれて追いかけており、逃げている三人は「逃げている」共犯。
その主犯格とも言える人物を追いかけていた、ある意味「敵」の言った言葉なんだけれども、この「敵」も、追うという補完を行っているのかも知らん。
そして赤ん坊の時に連れ去られ、選択肢なきままに二人の男の間に持ち込まれた少女、ヒナ12歳は自覚的に「知らないふり」をしている。彼女は気が付いたときから共犯の真ん中で、血の繋がりより、その共犯関係を選択する事で、さらに共犯して、「知らないふり」を続けていく。男二人はたぶんヒナの「知らないふり」を「知らないふり」していて、その点で、ヒナの存在に依存しているように思います。
私は、ちのつながり、がある者とは共犯できないと決定的に思っているし、それは思うとか考えるとかいう問題を超越して、すでに感覚的なものになっています。出来事の積み重ねがあったとかいう家族史は、歴史やから二倍重ねも書き替えも可能なのかもしれんけど、重ねていくことで変化も可能なのかもしれんけど、感覚的な生々しさは、冷凍しても脱臭しても変化しないのではないか。
私はこの作品、とても共感しつつ、苦しくて、それだけでなく「つまらない」と思った。
がつんと引っかかる部分があるものについてのみ、「つまらない」と思い得るのだとも知りました。そういった意味でも、そんな物語を作れるやまだないとが、すごいとも思いました。
ヒナのように、「知らないふりをしている」を自分に課して、それで「今」を保とうとすることは、言語道断でがつんときて、痛くって、涙が出てくる。
でもだけどさ、その「知らないふり」を破壊するには、一度「知っている」と言ってしまうしか、ないんやと思う。知っていると言ったそのときから始まる、無知、というものとの出会いを逃してしまう限り、とどまり続けなくてはならないです。それは、どうなんやろうか。
私はなんとなく、少し前まで、そういうとどまり方を、美しいと思っていました。というか、とどまるしかできない事を、擁護したかったのだと思います。けれども、世界はもっと残酷に、もっと別の美しさを持って広がっていて、無限の無知を受け入れるしか生きていけない時が来る。ヒナ達三人の「家族生活」は、残酷なものの上に危うさを持って保たれていて、ヒナはその事を知っているけれどその先は知らない。ラストシーン以降物語が進んでいくのだとしたら、壊れていくんやろう。
かつては、そうして壊れていくまでの物語の美しさを美しいと思っていたけれども、私という微々たる個体の中でも、「思う」や「考える」は変化していくのです。
この物語を切なく美しく享受できない私は、「知らないふり」をして「共犯者」を求めたその先を生きていくしかないのだと思います。確かに血の繋がりの中には持ち込めない物語があり、それは血の濃さが邪魔をしている。でも血の繋がらない者と血で繋がることも出来ない。結局血で繋がることの出来ない他者、と共犯者にもなれず、けれども共に生きていく事の難しさを「知らないふり」もせずやっていくことのおっくうさや、寂しさ、大切さを思えば、血は薄まっていくような気がするのです。水も濃くなっていくように思うのです。
家族という共犯者を求めた彼ら彼女らが、逆に血の濃さに囚われてしまうのだとしたら、一度「うちら、ちー繋がってないし」ってとこから初めたい。

要するに私の「つまらない」はただ私が今の自分の価値基準で価値判断をしているだけなんですね。評論、批評をしたいんでなければ。
物語を享受するってことは、そういう部分が多くあり、共感というものを得るだけではない「つまらない」は大きな存在だと思いました。

そして今何度も読み返している、やまだないと『西荻夫婦』は、その他人である事に関する圧倒的な寂しさが描かれていて、私はうしろめたい。「つまらなく」ない。何度も何度も何度も、つまらなく、ない。
うしろめたい。自分のために時間を費やす、ということのうしろめたさ。
もう少し読み直したいと思います。

2009年9月9日水曜日

写と交わる、真はどこ。


どこまでいくのん。




どっこもいかない。
ここにいる。


あの時のあなたはもういない。


生まれたら、ここにいたわれわれ。

時と場所と
もちもの、がかわっても、
かんじかた、がかわっても
かわらないわたしといういれもの。

ここにいたわれわれの、ただのひとつ。