「出産方面」: ミス・シリアス・ミス

2010年4月6日火曜日

ミス・シリアス・ミス

何だか微熱におかされているような、あちこちがむずがゆいような眠れぬ夜が、夢に逃げられないようなぞわぞわとした夜が、やってきたなぁと思えばカレンダーの数字が、近眼以上の意味でぼやけていた。四月になっている、二ヶ月もたっている。

なにもなかったかと言えばいろいろあって、生きてるからある程度のことはあった!
ネットにつながない/繋げないという時期はたまにあるのだけれど、以前はあまりにサーバー不調が多く「ひかり」に変えたにもかかわらず、ときどき不調。でもこの二ヶ月はべつの物理的問題。

実家と京都を往復すること数限りなく、葬儀後における様々な処理で帰省、仕事があるので帰京、また帰省を繰り返す日々に、時々ネットを、特にメールを開くの怖い。
仕事関係は携帯なので必要にも迫られず、三回くらい見てみてみると、1200通とか、もう怖い。
スパムの間に大事な用件が隠れており、以前はエロ系のスパムもタイトルがおもろいとか、この短い件名欄に書くため必死で考えたんだろうとか余裕こいてにんまり、のち削除だったけどもうめんどくさい!

で、いろいろあったことは手書きの日記のほうにはメモってあるのだけれど、いくつかここに書きませう。

☆完結
 WEB破滅派のほうで連載していたのが完結しました。一個前の号です。
 『喫茶エリザベート』最終回 青井橘
 なんかもう、確かに大団円。かもしれません。
 ちょっとの間に破滅派法人化へ、雑誌のほうも六号へ。活気づいてます。
 六号にも掲載していただきたいけれど今書いてるの長いので、どうか検討中です。20枚のを新たに書くか。脳みそがどうか。とにかく編集の方、ありがとうございます!感謝です。

☆実の家と書いて実家。
 そう実家なのだった。盆暮れ正月法事その他、実家に帰るということを二十歳過ぎてしばらく「なし」にして生きてきたけれども、もういい加減、そういうの、やめよ、と。せっせと帰って手伝いをした。しかし葬儀の後のだだっ広い古い家に祖父が一人、父母はそこで同居を始めた。結局私の「実家」は空っぽになったのだった。帰ることの悲しさとか寂しさが和らいだとたん、「私の実家」は誰も住まない家になった。妙なかんじ。あの階段を誰かがのぼるときの軋みも、和室にこもった防虫剤の匂いも、結局一度も聞きも嗅ぎもせず、祖父の家という統合された「母の実家」で私は主に料理をしていた。母は自らの「実家」で暮らし始めたことで、祖母の不在を痛切に感じると「いたはずのひとがいないんだわね」ということを私に言う。なぜか私にばかり言う。
私は物置部屋や屋根裏で、祖母の古いネックレスやブローチを見つけ、勝手に「形見分け」として貰った。
形を見る、と書いて形見。いったいなんの「かたち」を見ることが出来るのだろうと少しわけがわからなくなり、「いたはずのひと」という言葉に跳ね返って、「いる」ということはどういうことなのかと思いながら大根を煮込んでいた。出汁の匂い。いるような、いないような。
「母の実家」は私が幼い頃預けられた場所であるのだけれどやはり実家ではなく、その他預けられていた様々な場所も実家ではなく、不在の空気にぼんやりとかすんだ場所に居場所がないのだとしても悲しくはない。なぜ実家は悲しいのかということについて、私は父や母に話さない。実家に帰ってほっとする、ということがなく、会話に含ませない物事があるのだとしても、いいと思うようになった。ので、帰ることも出来るのだろう。しかし忙しすぎて行きたいところにも行けず、友達にも会えず。今度はもすこしゆっくり「帰ろう」。

☆横、縦、斜め。
そんな感じで慌しく、疲れが溜まったのかなんなのか、悪質の風邪に見舞われた。確定申告関係のよもやまを処理しているときにかるい吐き気。「現実」のぎっしりつまった書類に関する潜在意識の拒絶とかいう変な論文のタイトルみたいなことが浮かんだが、まぁ税金、払ってるからね。しょうがないね。
翌日遠方(奈良)の仕事に向かう途中、目の前を無数の蝶々が飛び回るかのめまい、もう出るもんないよという激しい吐き気で、トイレへ駆け込む。時間という概念が吹っ飛び、電話の音も判断できない。これ、やばい方面だなぁと座り込む。仕事先にいけないかもしれんという初の試練。その仕事ではお世話になってるエージェントさんがいるわけで、責任問題が私個人ではなくなるので、ていうか個人依頼でも責任はついて回るのだが、この業界の信頼関係とか仕事先の構築にどれほど苦心されてるかを考えれば、申し訳なさ過ぎる。なんとかたどり着き、顔色の悪さを笑ってごまかし、やってるうちに体温が戻ってくる。体が自分のもとに戻ってくる。体調管理も含めて仕事であり、プロであるわけで、「プロ意識をお持ちですね」と言われればうれしく、私だって褒められて育ってきたのだ。プロとか、そう言えばかっこいいが、趣味ではなく仕事である厳しさが身にしみた。
ま、そういう苦労話はあれだけれども吐き気というのは、ほんとうにほんとうに、容赦ないのね。ゲリラ的かつ他人行儀。結局ウィルス性だったらしい。同居人は上からも下からも。斜めからも。
私は下や斜めはなかったが、あの座り込んだ四角い駅のトイレのあちこちは、縦が斜めに、斜めが横に。 

☆KIKOE、ない。
で、よくよく医者に聞いてみると、ウイルスがリンパから髄膜に「いきそう」だった、と。
で、よく思い返せば左耳があんまり聞こえなかった。目と耳に関しては弱点であり、これまでにも耳が聞こえないことは何度かあって、一度は仕事による肩甲骨の酷使で首の筋肉がおかしくなったとき、もう一度は耳の奥と耳かきに関する執着が度を越し、ようするにずぼずぼやりすぎて綿棒が禁止区域に突入したのだった。
今回のやんわりとした聞こえなさぶり、もその綿棒ずぼずぼかな、と思って耳鼻科で貰った薬をつけていたのだが、おさまってから発覚したのだった。いきそうだった、と。

なんやかんやで耳が不調になると音楽のことを思うのだが、今度は少し前に見た映画を思った。
『KIKOE』
大友良英の音楽活動に関するドキュメンタリーで、京都シネマでやっているのを友達と観にいった。
この映画で思い出す物事はいくつかあって、
一つは、山奥でぱちぱちと火を起こす横で語る声。音楽に関する映画なのだけれど火の燃える音がとても音楽的で、同様に舞踏家が体を動かすときにこすれる音、骨の軋みも音楽的だった事。
もう一つは、いわゆる前衛音楽の爆音を「インテリの下痢」と言ったのはヤン・シュヴァンクマイエルだったっけ?という疑問。
ものすごく沢山の人が出てくるので、誰が何を言ったかわからんくなったけど、この「インテリの下痢」という言葉が奇妙に残っているのだった。インテリ、というカタカナの単語はとても間が抜けていて、字ずらの絵的にも、カーブが同方向でつるっとしている。インテリジェンスと濁音を混ぜればまた違うのだけど、そういう言い方は古ぼけたオッサンくらいしかいまどきしないし。で、そのつるっとしていて間が抜けていて何者なのかよくわからない存在のものが、下痢をする、ということが何だか面白かったのだ。あんころ餅みたいな白くて中に何が入っているのかわからない存在が騒々しいものをひりだしている情景を想像してみた。不快さ、なのだろうけれど。
でも阿部薫のように時々痛くチャーミングな騒音もあり、結局のところ問題なのは、下痢をしてまで後にある沈黙、そのためにわざわざ爆音を流すというという作法が上手く機能するかどうなのではないの。語りかけることも答えることもない、コミュニケーション不可能な爆音時間の後の沈黙。人前で下痢をした本人のみがすっきりするような爆音ではなく、その沈黙を共有できるような時間があるのだったら、きっとそれのほうが音楽で、つまりは沈黙という音楽を求めるワザなのだと、爆音の下痢に関して思う。
で、それを言ったのはヤンなのか? 別に誰が言ってもいいんだけど、気になるのは、私がヤンを好きだからなんだけど。

もう一つは、なんらかのイベントらしきものの会場で、なにもしない男性が、来た客に「何を見に来たのだ?」と攻め立てる場面。しーんとしているし、その人なんか怒ってるというかきつい口調で、客はたじろいでいるように見えた。これは音楽でも映画でもドラマでもお笑いでも絵でも本でも、なんでもかんでも、何かが欲しいと表現を欲望する、待っている受け手に対するアンチなのか、と思った。例えば肉体労働のような読書、というか良くも悪くも自分の人生にコードをつなげることが、いいのか悪いのか、快楽なのか苦痛なのかなんて簡単にはいえないけど、私自身の中にある欲しがりさ、流れるような受け取りの楽さと、情報の多さのことを考えていた時期に見たからかもしれず、もうちょっと違うことだったのかも、と疑問。これも疑問。
でもそれ以上にやはり沈黙に身もだえする光景が残っている。

結局、沈黙なのだった。『KIKOE』から感じ取ったものは奇妙に沈黙となっており、ギターにはさまれた演奏者不在の椅子も、なんだかやはり沈黙なのだった。

耳が聞こえなくなると、その沈黙が逆に常におかされている。ボーンとかシュワーという小さな音が耳の奥でしており、発せられた音は不鮮明に、完全な沈黙は濁ってしまう。美術の仕事は視線を定めるので目を奪われる。見たいけど見えない。ただ壁のヒビとかカーテンのシミを見ていて、つまりはなにも見ていない。そのかわり耳は活躍してくれるはずで、鉛筆のすべる音や衣擦れ、木炭のけずれる音なんかで見えていないその場の空気を認識する。だから、仕事中に耳がボワボワしているのは結構な不便で、状況を認識できず、見えない以上にボーっとする。
仕方がないので、自分の内側に目と耳をやるしかなく、この映画のことを考えていたのだけども、鮮烈な沈黙は、実はよく聞こえる、ということなんだな、と聞こえない私は思ったのだった。

ああ願わくば、痛いキリキリした沈黙を共有し、そのあとぼそりと一言交わすだけで、伝え合うことができたらいいのに。それはきっとすごくエロティックで優しい時間のような気がする。

こうしてたらたら書くように、私は、私には、しゃべりすぎるか黙り込むか、それだけだから。

☆気持ち悪い
そんなわけで、今更のように「エヴァンゲリオン」にはまった。今まで見たことがなく、家では同居人が時々BGMのように流しているけれど、どんな話かも主人公と同居人が同じ名前であることも、綾波レイがなんなのかもフィギアがあることくらいしかしらず、等身大48万すげーとかいうレベルだった。
だいたい、90年代ほどつかみどころのない悲しい時代はなかった、と思っていたのだった。80年代もそうかもしれないけれど、それは良く知らない時代だ。95年とかって多分、テレビとか映画を見ていられる状況になかったのだろうけど、存在すら知らなかった。
ウイルスが去った後の休みの日、おとなしく体を癒しながら、なんとなく同居人のビデオをみていたら、むむ、と思った。ロボットではなく肉体、というところにまず惹かれ最初から見てみることにした。
そしたら見事にはまってまったよ。
結局DVDで見れるすべて、劇場版の『序』まで見たのだが、一番良かったのはラスト二話の映画版「Air/まごころを君に」だった。
このラストでアスカが「気持ち悪い」と言って終わる。気持ち悪い!!ああ、そう!
何も泣くことはないのに、泣いてしまった。三回見たけど三回泣いた。
気持ち悪い! ああ、なんということを!
映画『書を捨てよ町へ出よう』で、「もうすぐ映画は終わる。真っ白になったスクリーンと暗闇に君は取り残されるんだ」的な、つまりは二次元の世界は消えて個々の実人生が始まる、というメッセージがあるような実写の場面も良かったけれど、気持ち悪いとは!! この一言がガツンときた。そいでその横で主人公シンジがぐずぐず泣いているのも。
ATフィールドという「心の壁」←おいすげーな、を消して人間が融合し一つになるという人類補完計画を拒否したシンジは「再びATフィールドを手にすればまた他者の地獄が始まる」けれど、「もう一度会いたいと思ったことは確かだから」、他者も自分もいないゆえに「完全」である世界、全部あり、なにもない世界を放棄し、不完全な自己と他者のいる世界を選ぶ。こういうの、すごくダメなんだな。泣いちゃうんだな。
融合しようとするとき、シンジの表情は幸福そうだった。多分快楽なのだと思う。他者との融合は理想であり、夢であり、だから心地よい。でも、夢の終わりから現実が始まる。テレビ版のラストはそういった物事をストーリーやニュアンスで形作ることをしなかったのかできなかったのか、アフォリズム的に語っていた。あんたらそれぞれどこまで言うねん、くらいとにかくしゃべっていた。言葉でつむぐことしかやっていなかったのだけれど、その間の出来事を描いた映画版はすごくて、もうそのすごさが「気持ち悪い」に凝縮されていた、ぎゅっと。
アスカは、シンジのこと好きなのかどう好きなのか、嫌いも混じっているのかもだけれど、シンジを否定する他者でもある。肯定もするし否定もする。受け入れもするし拒絶もする。アスカ自身が一人の人間として存在する以上、そうだわ。絶対に、一つになることはできない。神様ももういない。
その不快さ。不安さ。寂しさ。困難さ。めんどくささ。そいで悲しさ。
他者を、世界を、完全に自分の内面には置き換えられないという断絶。
思い通りにならないなら殺してしまいたい、とアスカの首をしめるけれど、それも出来ない。
「何も出来ない」という他者との断絶にシンジはぐずぐず泣き、アスカは言う、「気持ち悪い」。
私はそのような絶対断絶の他者との関係とは、究極的には「気持ち悪い」ものだと思う。自分にはなりえない他者も、他者にはなりえない自分も、そうだからこそ触れ合いは「気持ち悪い」。けれどけれどだから異質な気持ち悪さを抱えながら向き合うから、「好き」になることも出来る。私とあなたが一つになり、同じものになってしまったら、私はあなたを好きになることは出来ない。
夢が終わると現実が始まり、現実は気持ち悪く、気持ち悪いは好きの入り口であるということ。
それらは、一つの道、一本の線の先に終着があるのではなく、輪のようにループして何度も繰りかえすんやろう。簡単に成長して解決などしない。自我が目覚め他者を見つけて大人になることが終わりではなく、ぐずぐず泣いて泣き止んで、その繰り返しの挫折と発見を繰り返していくことが「リアル」に生きる終わりのない話なんだと。

それから、双極性の友達が、エヴァが使徒を食う血の飛び交うシーンが、躁転しているときの自分を見ているようでつらいと言っていたことを思う。あのシーンは悲しかった。攻撃性の先端、それと融合の切れ端でもあるのかもしれないけれど、ヒトはあのようにむさぼりあうこともあるのだ。

気持ち悪い、にある優しさと、めったに使わない言葉であるところの勇気のようなものを感じて泣きながら、
泣きながら私は、ああ、そうだったな、と思った。
すごくすごく好きな人と抱き合って、物理的に一つになってもまた離れなくちゃいけない。
私はこのへんな私の体みたいなものを引きずって、ゴミ袋みたいに膨らんでいくぎゅうぎゅうの心も一人でひきずって、がまた始まるんだと思った時、それは初めてめちゃくちゃ人を好きになった時だった。
すごく好きで暖かいその人の中に入りたかった。こっちからインサートしたい。
りかちゃん人形くらいになって、でもまだデカイ、おまけのケロヨンくらいに、ああでかいわ、
結局一粒の細胞くらいになって、その人の細胞の一粒になったらいいのに、と思った。
完全に溶けてしまったら、わずらわしいこともなくなって寂しくなくなる。でもすぐにそれはめちゃくちゃ寂しいことかもしれんなと。溶け込んでしまったらもう、あなたの顔は見えない。話すことも話すことによるすれ違いもその修復も、や、もっとシンプルに、手をつなぐことも出来ないのなら。

だから一人でいるしかない、一人でいて二人でいよう、と思ったものだったな。

6 件のコメント:

  1. エヴァンゲリオン、見てみたくなりました。

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  2. WTVさんの音楽性からすると拒否反応の部分もあるかも
    しれないけれど、どんなふうに見られるか興味しんしんです。

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  3. 待ってたよ。何度か開いても更新がないから、おばあちゃんのことがショックだったんやろかなと心配してました。

    やったね、文字の爆発。吐き出すように書いた文章、楽しませてもらいました。ボクもエヴァ、見てます★

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  4. HIROさん

    ぐだぐだ長いのを読んでいただいてありがとうございます☆
    ご心配まで、ありがたやです。
    そうですねー確かにショックはありましたー。でも時間的に忙しくて頭もまとまらんくて、沈静したので一気にどわっと
    書いてしまいました。このテンションの落差、自分ではなれてきましたが、、、。息の長い、もうちょっとスローな継続ブログにしたいと思いつつ、あいかわらずしょうもない性格です。
    HIROさんもお体、気をつけてくださいね!

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  5. んー、わかった、この長い文章のエネルギーのわけ。
    忙しくて、やっと沈静して、どわー、と射精した感じ。
    といっても理解いただけないかとは思うけど、ボクが感じた一気にという感覚はこれなんだと。

    でも確かに、青井橘さま、スローに継続するブログをお待ちしてますネ。

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  6. HIROさま

    いやいや発射の感じはわかりますよ。想像力に翼をはやせば
    出ないものも出る、いや出ないですごめんなさい。
    そうそう、ほんとぼちぼちを目標に。ありがとうございます。

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