「出産方面」: 蜘蛛の糸、タイトロープ、綱引き

2012年5月30日水曜日

蜘蛛の糸、タイトロープ、綱引き



★90年代

90年代のはじめだったか半ばだったか終わりだったか、いとうせいこうが以下のような内容のことをどこかに書いていた。 

「テクノロジーが進化すればするほど、人間は、より人間らしさ、を求めていくのではないか」

というようなことを。

 どこに書いていたのか記憶に無く、『ノーライフキング』のあとがきだったかしらんと本をめくってみたけれど、どうやら違うようだ。 しかしどこに書いていたかは大した問題ではない。そして氏がいつ頃からか、ベランダで植物を育てているのか、ボタニカルが氏自身にどのような必然性があったのかも、同様に。

 『ノーライフキング』という作品の概要は、ゲーム世界からリアルワールドに広がる「噂」の中で子供たちが翻弄され、都市的サバイバルのただ中に放り込まれるというものだった。そして、物語の映画版ラストで、生まれたての赤ん坊を前にした小学生が、「新しいリアル」と呟いたのが、印象的だった。


★新しいリアルってなんだ?

この本を読んだり、映画を観ながら、しばし興奮を味わった。何かが変わる、かも知れない、というようなことを言っている書物なり映画なり、は刹那の興奮を呼び覚ます。エロより変化。これがある種の人間には、なんらかの物質を分泌させるのかも知れない。

しかしそのアドレナリンだかドーパミンだかの物質作用は、せいぜい一分か二分くらいのものだった。何故なら、90年代とは、新しいリアルに希望を見いだせるほどおめでたい時代ではなかったのだから。
「新しいリアル」とひとりごちた少年同様子供だった私は、新しいリアルが来るのか、それはいったいなんなのか、どう新しいのかといったことよりも、今ここの閉塞感と暗さに埋もれている自分を、まずどうにかしなければと思っていた。暗かった。

あの暗さ。あらためて言うまでもないが、阪神で大きな地震があり、かぶりものをして踊る新興宗教団体が、サブカル的マンガ的犯罪で世の中に稚拙な闘いを挑み、敗れ、にっちもさっちもいかない法が整備され、中学生が子供をあやめたという「事件」が矢継ぎ早に情報として降ってきた時代。
どこもかしこも非現実か現実か、マンガか実写か区別不能な中で、思春期という台風のような季節をやり過ごさねばなかった。暗かった。
ある社会学者は「まったりとした日常」を生きろ、と言った。私は、少しもまったりなんかしてないわ、殺伐ですわ、と思っていたし、実際、終わりなき日常のフラットさにうんざりしていたのではない。戦闘的な日常の中で、まったりなどしていたら、やられる、という危機感のほうが強かった。暗かった。

★暗さからのコペルニクス的転回

15年だかの時間が過ぎ、あの時代からお話にならない速度で発達した高度情報化社会がコペ転を起こすのか、という一抹の希望。それをここ数年考えてきたのだけれど、じっさい、わからない。
人間はどんな時代でもなにかに一抹の希望を託してきた。時には信仰、時には宗教、時には科学、時には産業、時には革命、エトセトラ。
私も人間である以上、希望は託す。個人的なレベルでは仕事や創作や守るべき夫、友人、そして愛、愛。主観的世界ではあるが、相対的な現実である。
けれども公共有世界をも思う時、相対性は変わらないまでも、主客は混ざる。
この生きている世界への希望を「世界は美しい」という、真実ではあるけれども残酷でもある言葉で片付けるには、言葉はたぶん、あまりにも言葉すぎるのだろう。
だから、今こうしていじくり回しているWEBにも希望があり、それがもしかしたら「新しいリアル」とかいうものなのかも知れないという問いをどうにかするためには、ただのユーザーとしてではなく、あるときはメタユーザー、ある時はネタユーザー、ある時は壊れたユーザーとして向きあってみたかったのだった。
それは例えば「ソーシャルネットワークと現代」みたいな本を読むことだけではなく、わりと技術的な面も大きいのではないのだろうか。道具の何たるかは、道具を使う人間より作る人間により理解をもたらす。なので、も少し突っ込んで、いろんなものをいじくり回そうとしていたところ冬になってしまったので、結局PCを道具として小説を書き、考えちゃう論考を読むという行為に終始していた。
しかし、道具を使い道具に使われるただのユーザーだからこそ、混乱にまみれ、わかったような気になることだってあるのだ。
これは言い訳ではない。かも。

★で、テクノロジーが進化すれば人間は人間らしくなるのか

という命題に関しては、ある点で正しかったと言える。それが希望かどうかは別として。
3.11が起きた時、確かにTwitterは「役に立つ」ツールだった。避難所や安否や被害状況、支援の伝達を、いち早く、有益にまわすことができた、というシステムは勿論、「みんなが」あるいは「多くの人が」協力的だったからだと、私は思っている。
危機的状況の中で、バトンを渡していく、それがソーシャルで小さなメディアの大きな連帯になる、と、人間であるがゆえに希望を託す一人である私は、ポジティブな柔らかいしっぽをつかんだ気がした。
けれども、今はどうだろう。
ネットワークは世の中のシステムに関する様々なネタバレを達成した。しかし、ネットワークによってネットワーク自身もまたネタバレしていく中、人間は、人間らしくなっているのだろうか。
あまりにも人間らしい、というのが今のところ私の答えである。
誰だって騙されたくなどない、誰だってバカにされたくなどない。その憤怒を廻すツールとして、ソーシャルネットワークが細分化し、アングラ化しているのかという判断よりも、一人ひとりのその声は、紛れもなく人間の声であろう。機械を通して聞こえてくる声。

私はなんだか9月の段階で一度しんどくなった。ので、被災地を訪れた。

なにがしんどかったのかはうまく言えない。まだ冬にはなっていなかった。けれども、テレビも新聞もWEBもなにもかも、なんだか見ていることが、おこがましいような、引き裂かれる気持ちがあった。

ツイッターで、ある方がこんな事をおっしゃっていた。
「現実にとって辛いことは、小説にとってもつらい、だから書くことはできないだろう。それができてしまう詩人の無神経さにはうんざりする」というような事を。

おこがましい、という気持ちが私にとって、あるいはそれを聞く人にとって、無神経なのかどうかもわからない。ただ、新しいか新しくないか以前に、「経験していない」ことの無力さと、やるせなさ、それを確かめたくて行ったのかもしれない。

支援という大義より、落とし所が欲しかったのだとしたら、そんなものは、どこにもなかった。そしてFBやここに写真をのせることにすら、おこがましさを感じている。

そして、私が3.11的なものを小説に書けないとしても、私が無神経ではないという証にはならない。論理的にも、感覚的にも。おこがましさとは、論理と感情の壁を破るし、経験と想像力の、温厚な関係にも水をさす。

しかし、この溢れかえる言葉の中で、「知識」を増やし、理解し、誤解し、対立し、落ち込み、共感し、交感し、罵倒し合う状況は、それほど新しくはないがリアルではある。いや、これら全てが情報の速度の中でループし、混乱していくのは、あまりにも人間的ではないか。人間は機械ほど、早くなれないのだ。
もしかしたら人間は「新しく」、もなれないのかも知れない。

そして私は「バカっていう奴がバカなんだぜ」というノーライフキング的小学生の言葉を思い出しながら、やはり、人間だな、と思うのである。

3 件のコメント:

  1. おこがましいような、引き裂かれる気持ち、って良く解りますし、凄く人間的だと思います。

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  2. テクノロジーを進歩させようとするのも、欲望、向上、善意、信頼、といった人間的な動機なんですよね。テクノロジー対人間という対立の定義ではない時代になったのかもという気がします。

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    1. あと付け加えるなら、やがては「成長」し失われる存在として、「子供の死」と戦う子供が見た新しいリアルが新しい命だったということです。子供が戦っていたのは、機械の中のリアルで、それはまだ見ぬ「大人」が設定したタイムリミットだったのだと。あの頃から産業として機械を利用できる「大人」と「子供」の戦闘は始まっていたんだと。
      そして今や、科学技術を進歩させる人間も、使う人間も、経済的機械の活用という「大人世界」と向き合う「子供」なんです。無論「子供」とは、幼さの事ではなく、リミットを持つ者という意味で。

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