「出産方面」: 4月 2011

2011年4月26日火曜日

桜散って、ちりぬるを。

花なんか好きに決まってます。

「ぽかんと花を眺めながら、
人間も、本当によいところがある、と思つた。
花の美しさを見つけたのは人間だし、
花を愛するのも人間だもの。」

太宰(はいまたきた)『女生徒』の名文ですね。ファヴォライトな方も多いのではないでしょうか。そうですよ、太宰ったらこんなセンチメンタル野郎なのです。はた迷惑なセンチメンタルなど、と揶揄ってもいいですが、他人の情緒や感傷を迷惑がるなんて狭い心は畳んでしまって、うんそうだよね!と微笑んでおきたいものです。

それにしてもこの文章を読むたびに、よいところがあるのは花なのか、人間か、人間なのか?と小一時間考え込んでしまう私ですが、人間も、本当によいところがある、と結局は信じているようです。
ではそれは、例のコマーシャルのような、お日様照り照りの博愛主義なのか? いやそうじゃない。そうじゃないよ。
しかしこの手の話は長い廻りくどいの王道、王の道の門、あるいは阿片窟の入り口のようなものなので、回避しましょう。
私だってね、学習能力くらいあるのですよ!

そんなわけで、散ってしまった桜の写真。
桜は散っても、私のブログという狭い世界の中では、咲き続けるのだ。
WEBというシステムが続く限り。
限りはあるけど、続く限り。


疎水に水を放流する音が、住まいから毎日聞こえていて、水面に垂れ下がる桜。絵になる。なりすぎる。


水門。けっこうな勢いなのですが、通るたびに足を止めてしまうのは、なにか、危険な兆しでしょうか。


葉っぱや紙でお船を作ってね、流してもね、追いつけないですね、きっとね。


水の貯めてある脇にあるレンガの藤棚。多分藤棚だと思うけれど、ここでの季節はまだ、はじまったばかりです。
ガジュマルによくある「絞め殺し」の枝ぶりがレンガと合っていて素敵。夜の散歩の一息スポット。というか家から二分とかからない場所で一息ついちゃう私たちってば。


ところ変わって高瀬川。なんか伏見の方から届く米俵とか酒樽とかが船に乗ってます。酔っ払ってたら跳び移ってしまいそう。ここも散歩圏内ですが、ほろ酔い危険地域ですね。

花は美しい。無条件に。そして何も言わない。文句も愚痴も、自尊心を傷つけるようなことも。
だから穏やかにながめてりゃいいんでしょうが、私、先日もツイッターで書いたように、桜は怖いのです。
文学的、情緒的、思い出的、記憶的、虚言的、に。あらゆる要素が重なっているのもあるけれど、そんなことよりね。
桜って、決して無言ではないんだもの。
植物がしゃべらないなんて、人間の世界のファンタジーなのですよ。

桜が怖いのは、囁きが折り重なって、小さな小さな無数の声がどこまでも続いているから。
咲き誇る僅かな時間に呟いている。小さな声が私の耳に目に鼻に口に、入ってくる入ってくる。
そんな濃い囁きに囲まれたら、息を押し殺して、うつむいて歩くしかないじゃないですか。
夜はずっと親密に、用心深く、けれど大胆な内容のひそひそ話をしているし。
夜桜の下で、私は赤面です。

桜の儚さと、かしましさ、大胆さには、毎年参ってしまうのでした。

けれど今年の桜たちの囁きは、いつもより、無邪気で優しかった。
そんな気がしています。
また来年ね。

2011年4月4日月曜日

はじめましてふるさと。

3月に更新できたのが一回で、しかもあのタイミングだけだったということは、いたしかたないし、しかたない。

しかし私は昨年の夏から冬にかけて、ちょっとした教訓をこの貧乳に刻みつけたのであって、そのひとつが「しかたない」のはしかたないじゃんっていうのは、しかたないからやめようよ、ということなのでした。

起きてしまった物事に対し、しかたないしかたない、言うのはほんとしかたない。

この先をなんも変えられへんくてまたしかたないを言うハメになる。
同じことを繰り返すのも人の子、習慣になれば日々もまた楽し、ですがね。

今はもうそんなのんべんだらりとした事を言っていられる場合じゃないのは、なにも、震災のせいだけじゃない。
もうみんな、だいぶ前から、いろんなこと感じてたし、うすうすわかってたはず。

とまあ私は自分が生きてく中でつかんだ教訓のようなものを是が非でも他者に共有してもらわなければ息もできないほどの、運動家でもマッチョイストでもないのですし、「しかたないをやめる」と同時にやってきた御言葉は「覚悟」だったのでした。

覚悟っつっても、そもそもの神経質に摩擦をかけて黒板爪でひっかいて、不快音が逆に快感みたいな倒錯行為をするのがどんな結果をもたらすのかは火を見るより明らかなので、ハチマキ巻いて飛行機乗るといかいう覚悟ではなくむしろ逆。

追い詰めて追い詰めて生きたところで、生は生。

そのどうしようもなさを嘆かないという覚悟だし、選んだハッピーがさらなるハッピーをもたらす事を求めるのではなく、ハッピーは作れる可愛いは作れるみたいな(なんか聞いたことあるけど、なんのCMですか)とか、ハッピーだけを見てるなんて無理、人間いろんなものをいろんな穴から流してそれでも一緒にいられるかっていうことだよねと幾原さんがツィートしててそんなんもうほんま随分前から身にしみてるよ、とか、あまりにプライベートなことなのでちょっと今日は書かないけど、そんなことよりこの文章なんとかならんかというのを、引っ越してしかも私の荷物はこれから引っ越すというのに、つないだノートパソコンがまだ連れ合いの本の詰まった段ボールに乗ってるせいにしていいですか、だめですか。

だめそうなので、写真に頼ります。甘えさせてね日光写真。うそぴょん、ただの写メですよ。

私は梅の花が好きなのです。桜については色々思うところがあるのですが、梅は単純に強い。空に負けない。けれど今年はわやわやのうちに梅をじっと睨む間もなかったですよ。一瞬の隙をついて空をあおいで撮ったのだ。一瞬て。なんだこのイミフな多忙パフォ。

でも今年の桜はかなり待ってた感があるので、うれしいけれど、まだちらほら咲きです。新居は鴨川にも疎水にも近く、水と桜に囲まれていますので、これからも心地良い風景をお届けできれば、と思います。とりあえずは近所の柳。

この大きな柳のそばを通ると、なんかふっとします。大きいから柳の垂れてる葉も長くて、なんつうか、時間が、一時間が一分が一秒が、いつもより長く感じる。そして風にそよぐと時もそよぐ。時という直線的なものが軟体になっている不思議を味わえるので、私はこの場所を通るのが好き。

メトロというクラブが近くにあって、京都に移り住んで間もない頃、ぼわんとした耳で朝焼けを見たのもこの柳の下だった。あの頃京都はまだ旅先だったのに、いつの間にか私の故郷のひとつになった。私はこの新しい故郷で、連れ合いと天気のいい日、サンドイッチを作って食べるつもり。柳の下で、下戸の連れ合いをさしおいて、暖かい休日の昼間に、昼間から、白ワインを飲むつもり。

はじめましての、ふるさとで。
私はワインを飲むつもり。

世界中の場所は、どこもかしこも、みんな誰かのふるさとなんだ。