書いてて思ったんだけど、絵的に想像すると笑えますね。
後ろ向きに疾走は。すごく早かったりするとよけい。
がばいばあちゃんは「後ろ向きでは歩きにくい」といってたそうです。やずやかなんかのCMで。
歩きにくいなら走っちゃえば。
そんなわけで私の参加する『破滅派』紙雑誌版七号、です。
早めに情報公開するから早めに告知&宣伝をすべし、という建設的な戦略ということで、WEBおよびツイッターで急いで宣伝です。疾走宣伝。早すぎると光に近づくという原理、なんかありましたよね!
内容はこちら。
12月5日の文学フリマでまず販売です。
青井は新作短編小説「「妄想風俗店」」が掲載です。「」いん「」です。そんな細かいとここだわるよりもっとキャッチーな題名考えろぼけ、それと、自分のこと青井とか言うな。
最近、時々試してみたくなるのです。「エミってねー」とか自分で自分の名前いっちゃうかんじ。(エミにはまったく他意ありませんごめんなさい)「まゆまゆはぁー」とかくりかえしバージョンもやってみたい。
それは誰だい、私だい。そんなやりとりしてみたく、青井は、などと時々言うかも、言わないかも。
今回は当初のコンセプトが「温故知新」だったのに、「敗北宣言」になっちゃいました。
私もいちおう「おんこちしんおんこちしん」を頭に叩き込んで創作したつもりなのですが、ぜんぜん貢献できずごめんなさいです。でもどんな「敗北宣言」なのか楽しみですね。
あと楽しみといえば、破滅派テーマソング!です。CDもあわせて発売。
きょうび、CDです。(という高橋氏のエントリーにウケたので引用させていただきました。)
Rocket or Chiritoriと「叙情系漫画家」今日マチ子氏のスーパーコラボ企画。
歌詞を大々的に募集、そしてオープニングはあのなにをやってもハイセンスなアサミ・ラムジフスキー氏によるもので、青井は(やっちゃった)とっても楽しみです。
個人的にも注目している、高橋氏の山梨におけるコミューン建設記事。
それと青井は(おいまた)竹之内温さんの小説ファンなので、今回も並んで掲載していただく光栄!
色々リンクタグ満載でお届けしております、宣伝です。
でもそもそも破滅派ってなんなわけ? というそもそも派のあなた!どうしよう!
破滅派にとんでいただければ、まず幸いですが、コンテンツもりだくさん。そこで、またかよという批判覚悟で個人的に好きな記事をご紹介します。
破滅派放談「グッドバイにはまだ早い」
かくれ太宰ファン、なるものも存在する昨今、わかりますよ、太宰好きって言ったとたん「あれ」なかんじなわけでしょう。わかりますわかります。私は逃げも隠れもしないファンですが、酒飲みながら太宰について熱く語っちゃうこの放談、しかと読んでいただければ奥深さが伝わるかと。太宰読みの葛藤です。
ちなみに私が好きな太宰作品は!
「畜犬談」-私は犬に就いては自信がある。いつの日か、必ず喰いつかれるであろうという自信である。― 『きりぎりす』新潮文庫収録
「饗応夫人」来客におびえつつ泣きながらもひたすらもてなす夫人のおはなし。『女生徒』角川文庫収録
「人間失格」の印象は強烈、あと作家性とか文体がとか、いろいろいろあるでしょう。しかしあの新鮮さ!ウェットなウィット!何度も裏切られ感をもちつつ結局ずっと好きは好き。
と!破滅派宣伝が太宰宣伝になりそうなのでやめますが、この放談での両先生のような引用応戦、記憶機能を修理しないと私は参戦できないなぁと思いつつ、とっても面白いので読んでみてください。後半にいけばいくほど、感涙です。破滅派のなんたるかもわかるかも。
破滅派はわかった、じゃあそもそも文学フリマってなんなわけ? という、そもそもラディカル派のあなた!どうしよう!
これ、現行の文フリ運営のなかでどう変質し、進展してるのか検証していないのですが、とりあえず、そもそも、こういうことではじまりました、というのが「不良債権としての『文学』」。
そもそも満足度を高める事ができれば幸いです。
さて、そもそもはこのくらいでいいだろう、破滅派7号、よろしくお願い申し上げます。
宣伝なのに、長い。
追記:コメントに書くとリンク張れないんですね。
おんなじこと繰り返して限りなくあほっぽい。
この論文も面白いです。破滅派。
「「葉桜と魔笛」論」花藤義和
破滅派宣伝すると太宰を宣伝することになる。
ダブルスタンダードならぬ、ダブルオセオセ!
追記追記:今現在の文学フリマの理念はこちらです。
あわせて提示したほうが良いかな、と思ったのでリンクをば。
2010年11月30日火曜日
2010年11月24日水曜日
こびこびめるめる、17歳よ永遠に。
メルボルンに行っていました。ちょっと都合で。プライベート流出させたりするくせにメンドクサイとこのもの言い。
しかも美しい教会やお花の写真も沢山とったのに、このあんましかわいくないコアラをのせちゃうの。
突然ですがみなさん、コアラは媚びています。
爪鋭いです。きっと凶暴です。
どれくらい媚びているかを語ろうと思ったのだけれど書く前から論理崩壊している。ああ。
以前オーストラリアに行ったとき、私は17歳でした。
そんな旅行とか行きたくないし、それどころじゃないし、コアラとか超むかつくという女子高生であった。ような気がする。
でもシドニーのダウンタウン一人で歩いてそれなりに楽しく、ゲイカルチャーにはじめて触れたのもダウンタウンだった。ような気がする。
あんまし覚えてないのです、オーストラリアってつかみどころのない国だという記憶で。
ただ、どっかの動物園でコアラを抱っこして写真とったのは覚えているのでした。
コアラのぬいぐるみの上にコアラをのせて、私はコアラのぬいぐるみを抱く事で、結果的にコアラを抱いてますよ、という写真になるらしかった。意味がわからんくて。できた写真も二層式のコアラを持ってるかんじ、だったような気がする。ほんと意味がわからんくて。
ぐだぐだなコアラのぬいぐるみの上に横たわり、ぬいぐるみと同じくらい動かないコアラを持った私は微笑んで、なんだこいつ媚びてるのか、と思った。いや媚びてない、媚びるなどという人間的感情操作などできるはずがない、30秒くらいの間に私の脳内会議は破綻しました。
ぬいぐるみオン本体。そのように大切に扱われる動物に対して、嫉妬を感じていたのだろうか。
コアラの取り扱いは州で違うんだって。だから直接抱っこオッケイのところもあるんだって。
どっちでもいいわ!
なんやねん、コアラってなんやねん!と怒っていた17歳であった。ような気がする。
今回は野性のコアラとかいうのがすごい高い木の上にいるのを眺めたい人のために手配はしたけど。
やはりコアラに対する気持ちの整理はつかない。17歳のときのような怒りはないけれど、かわいい!ラブ!とは思えず、栄養の少ないユーカリだけを食べては寝、おなかがすいて起きたらまたユーカリ食べちゃって、でも力がでないから一日20時間くらい寝ちゃうことを運命づけられた生き物に対する気持ちの整理はつかないのだった。
たぶん媚びてないし、力でないだけでコアラに罪はないのであろう。でもなんだか複雑な気分になるのです。
じっさい減ってるわけで、そいで守られてて、減らした人たちに守られるという希少動物のせつなさとか、そういうのんもあるけれど、かわいいのかかわいくないのか、わかんないっていう単純な話かも。
しかしメルボルンまでわざわざ行って、コアラに対する気持ちを再確認していたわけではなく、このように美しい日暮れを海岸から見ていました。
ビーチ沿いのレストランで、窓の向こうが染まってく。
向かいのテーブルにいた子が逆光で見えなくなった。
「うわーきれい、なぁなぁ私、こんな空見るためにほぼ、生きてるって思うんだけど」
と、いろんな人に100回くらい繰り返している事を言う。はいはい、というリアクションなので一人で砂浜に行き、写真を撮った。
スキンヘッドの「自称フォトグラファー」のカナダ人にサイトアドレスを教えてもらったり写真撮ってもらったりしていろいろ話したので、同じことを言ってみた。
もちろん!そのために生きている!
ものすごい満面の笑みをかえされた。
ああもしかしたら、媚びているのはコアラではなく私なのかも。
私の中の17歳なのかも。
どれくらい17歳かっていうと、これくらい。
久保ミツロウ『モテキ』のドラマ化放映期間は終わり、テレビがないので観れなかったけれども、「ロックンロールは鳴りやまないっ」がフルコーラス流れた、と聞きました。満島ひかりちゃんが絶叫カラオケするシーンがあったと聞きました。
パソコンの音声が出るようになってやっとニコ動やYOUTUBE観れるようになったのだけど、以前観たこの子たちのいろんな切ない映像は覚えていて、それでもやっぱり、ほろっとしちゃったよ。
コアラに複雑な気持ちを抱き、夕日みては泣き、「神聖かまってちゃん」に感じる私の17歳をゆるして、媚びない方向でちゃんと残しておいてあげたいと思いました。
2010年11月11日木曜日
だめだめだめ、ぜんぜんだめ。
おおっと。久々に再開したと思ったら更新頻度の間が!
ものごとを突発的に充実させるとろくでもないことになっていくというのは、こんにちのロボット以外の習性だということをわかっている一部の方々に、特殊な方面のご心配をおかけしてしまいそうだけれど、大丈夫、ちょびっと酔ってます。これで安心ひと安心。
あのね、大岡昇平『花影』。これさぁ。はなかげ、だと思ってたら、かえい、なんだって。
私いつも、この手の音訓にしてやられます。実は、はなかげ、のほうがいいと思ってるのに。かえい、と口に出しながら、心で、はなかげはなかげ言っておこう。
そんなことはどうでもよく、ある時代のなんらかの女性(なんだよそれ)のことを調べていて見つけたのが、坂本睦子。ウィキだとコレ
別のサイトだとこんなんも。
まぁキレイな人だったのだろう。魅力的だったのだろう。でも、この人をモデルにしたとされる『花影』の主人公、葉子は、はっきりいって、まちがっちゃった人です。
読んでいて、まず頭に浮かんだのが、吉野朔美『恋愛的瞬間』の二巻。「秘密と嘘」に出てくる、心理学者にも手に負えない女子学生と文学部教授の、不倫。
「あなたは私のことを文学的感傷で愛している」
「肉体も魅力的だって知っているよ」
「私の不幸を愛している」
「君の不幸を望んだことなんかないよ」
「良心が痛むからよ。あなたは嘘をついていることを忘れているのね」
自分の不自由さに気づいていない。浮気をすることが、自由だと、思っている。
吉野朔美『恋愛的瞬間』小学館2002
女子学生はまちがっちゃてること知っている。でも葉子は何をまちがっちゃてるのか自分でよくわかってないのです。
まちがっちゃったというのは、沢山の遍歴を重ねたとか、不幸な最後を遂げたとか、そういうんではなく、しかも実際の坂本睦子の話をしているのではありません。
あくまで、小説『花影』の主人公、葉子、のこと。
坂本睦子は知らん人なので。モデルを想定してうんぬんというとき、あなたはその人を知っているのか会ったのかということを問えば、そうではない。なら、登場人物として素直に読もうではないか、どうですか。
直木三十五、菊池寛、小林秀雄、坂口安吾、河上徹太郎、大岡昇平とかとの関係、実際の坂本睦子に関しては色々書かれたものを読めばよい。大岡昇平が嫉妬や感傷や衝動をどう作品に昇華させたのかも、このさい、おいておく。
小説の主人公、葉子がまちがっちゃってるのはね、あのね、この小説の登場人物、高島とか言う人との関係。(この人が誰を想定してるのかももちろん、おいておく)
高島と葉子という女給との関係はいわゆる男女のものではない。肉体関係もなく、葉子が沢山の男に求愛されるさまを高島は全部知っている。それはいい、まあいい。しかし、この高島という男、完全に、葉子のことを読み間違えている。
ほだされやすく男性に愛されやすい葉子に「女給でいるしか道がない」的なことを言うんですよね、こいつは。
高島は骨董品の目利きなんかをしていて一時期はぶりが良かったのだけれど、そういう時期に出会って、葉子の庇護者的存在なのだけれど、この人に人生の指南や信頼を置いていたところが、葉子ちゃんのまちがいだし、おちぶれた高島が葉子への見方を変えないところもまちがい。
あのさ、葉子という女は、実は、もっとも夜の世界に向いていない女なのです。
はっきりしとくためにいうけれど、そのへんで私とおんなじ。
私は今まで二度、いわゆるホステスチックなことをしてみたことがある。一度は大学のレポート書くための一日体験入店。もう一回は民話伝承を収集するために滞在した石垣島での酒場。どっちも銀座だの、新地だのとは違う、特殊な状況だったし、そういうとこではできひんと思った。あの世界で強く生きていける女性の多くは、とっても地に足がついているのです。お金をもうけること、自分の足で立つこと、嘘も方便も自分の責任で引き受けられる事。悲しみを悲しみながら反発できる事。かっこいい女性たちなのです。男を喜ばす、という商売で自分を貶めない、男以上に漢なぶぶんがあるか、すでに10人くらい子供産んでるよ、に等しい気概がなければ、お金と虚栄と擬似恋愛の世界に飲み込まれてしまう。褒めて楽しませて喜ばして欲しい男の人を抱擁しつつ、彼らの自尊心すら守ってあげる、子育てと介護に通じるような感情労働なのです。
私のことを言ったのでついでに断言すれば、私のようなヘタレの泣き笑い顔ではつとまりません。
夜の世界のしろうとが、夜の世界につかる事などめっそうもない。
このへんのことを高島はわかってない。
ふわふわふわふわしていて、身の置きどころがなく、線の細い葉子という女性が、そんなことして壊れないわけがない。寂しがりの甘ったれの葉子が、ちょっと男を喜ばせられるからって、女給でいるべき、などという短絡をするこの男は、本当にしょうもない。葉子は世界においていつも居場所を探しているような、生き人形のような女です。喜ばせるのはわかってほしいから、受け止めて欲しいからなのであって、一人で生きられる女じゃない。そんな女が求愛の真ん中に放り込まれたら、体も心も自分から手放してしまうのだ。その程度のこともわからん審美眼の持ち主高島を信頼し、おちぶれてなお身の回りの世話をしていた葉子。一番慰安されていたのは高島だったのだよ。
不幸、というのはもちろん文学的です。吉野朔美の女子学生はもう少し達観していて、でも自分の不幸に耐えられないから、まるで自分を切り刻むように、文学的ダンディズムのミューズとして不幸を偏愛される関係を、受け入れる。でもかしこい女の子であった。一緒にいるときからその不毛さ、文学者の求める嘘の甘さと身勝手さ(しかもはてしなく前時代的)を、悲しい目で見てる。いつか終わる。もっとも悲惨な終わらせ方をするべきか、何も伝えず静かに終わるのか。彼女自身のある種の文学的不幸と、天秤にかけながら関係性を少しの間継続させている。
これは女子学生が、葉子よりもあとの時代の女の子、だからかも、しれない。根っこの感受性は近しいのかもしれない。しかし、否定の言葉を口にできるだけ、女子学生のほうが強い。女の子が人形ではなく言葉を持った時代において女子学生は時々、教授を言葉によって怒らせる事もできたのだ。葉子はなにも言わない。黙ってなげやりに微笑む。
でも、『花影』の冒頭、これは良かった。
「葉子は最初から男のいうことを、聞いていなかったのかもしれない」
『花影』大岡昇平 講談社文芸文庫 2006
聞けよ!お前も!しかし面白くなかったんだろうね、言えなかっただけで。
身の回りをきれいに整え、繕いものをし、来客のために美味しい食べ物を用意し、喜ばせることのできた葉子ちゃん。高島とかいう男は気がつかんかったのか。
葉子が向いているのは夜の世界ではなく、誰かに徹底的に愛され、肯定され、守られ守り、生活の微々たるものごとを構築していくために、のどかな微笑を微笑む事。時代が時代だから、それが妻であり母でありということになるのかもしれんけれど、お金を介さない晩酌をかたむけるために笑って、日々の生活の中でその繊細な機転をフル活用し、それを楽しんでくれる男の子のパートナーになることが、葉子ちゃんの幸せなのだと指南すべきだったのだ、アホめが。
繊細さの襞を楽しめるディレッタントさを自分以外の人間に向ける目を持ち合わせていない高島と、ステレオタイプなデレッタント(間違ってないよ、デレッタントだよ)に溺れる男たちの間で、結局葉子は、孤独だったのだ。
男と女の文化の楽しみ方が不公平だった時代、だからかもしれんし、私はフェミニストではないし、葉子ちゃんは男の子を好きだったのに、なんか最後にはなにもかも憎たらしく思っちゃうなんて、さみしい。
かわいく、たのしく、結び合うための、おりこうなやり方、それって男の子の女の子、女の子の男の子にある、という意味で私はフェミとはちがうアプローチをとる。しかし言葉でやりあうとき、その言葉はまだ開発されていないから、日常のありきたりの出来事から発明しているのでございます。
さて、話がぶっとびます。
この『花影』講談社文芸文庫ですが、解説が小谷野敦、です。私はこういう戦う思想家が好きです。中島義道とか。ないってーと思う主張にぶち当たる反面、そうだよな、があり、そうだよな感が強いから。アカデミックな取り繕いをしないので、共感が強烈なのです。
その解説、大岡昇平が芸術院会員を辞退したときのいきさつを結びにしております。
「むろんそこには、戦死した兵たちへの鎮魂と贖罪、そして責任をとらない者たちへの怒りが込められていた。青山も白州も小林秀雄も、美の審判者に過ぎず、その怒りを共有する人々ではなかった。政治や社会に目を閉ざし、漠然とした日本的美の世界を描いて読者を幻惑する人たちだった。」前同 解説 小谷野敦
大岡のほかの歴史小説には正直あまり興味がなく、この一人の女性を書いたものからしか彼の創作を知る由もないが、小谷野氏の度胸ある解説から考えるには、もし大岡の姿勢がこのようであるならば、『花影』の主人公、葉子に託して表現したかったものは、一人の女性に対する執着や死に対する感傷(それはぜったいあったと思う)以上に、文学や芸術や美、それにもとづく欲望や名誉、ということどもの間で翻弄される、どうしたってどうにもなんない、すくいきれない人間の生きざま、の話だったのではないでしょうか、どうでしょうか。
と書いていて、はたして私自身モデルと登場人物をどれだけ区別して読んでるのか疑問が出てきちゃった。
だってやっぱり舞姫のモデルが誰だったとか、気になるもんねぇ。
舞姫のヒロインモデル特定に新証拠。誰だよ!と思いつつも。
坂本睦子に関しても、きっともうちょい調べちゃう。
さて、もう一回り飛ばさせていただいて、戦う思想家、内田樹氏。ブックマークに貼ってますがコラムが面白いのに発見しにくいので、改めてご案内しておきます。
内田樹Simple man simple dream
これ、必読。なんだけどなんだけど、冒頭から逸脱しまくり。自由自在ですな、おい。
ものごとを突発的に充実させるとろくでもないことになっていくというのは、こんにちのロボット以外の習性だということをわかっている一部の方々に、特殊な方面のご心配をおかけしてしまいそうだけれど、大丈夫、ちょびっと酔ってます。これで安心ひと安心。
あのね、大岡昇平『花影』。これさぁ。はなかげ、だと思ってたら、かえい、なんだって。
私いつも、この手の音訓にしてやられます。実は、はなかげ、のほうがいいと思ってるのに。かえい、と口に出しながら、心で、はなかげはなかげ言っておこう。
そんなことはどうでもよく、ある時代のなんらかの女性(なんだよそれ)のことを調べていて見つけたのが、坂本睦子。ウィキだとコレ
別のサイトだとこんなんも。
まぁキレイな人だったのだろう。魅力的だったのだろう。でも、この人をモデルにしたとされる『花影』の主人公、葉子は、はっきりいって、まちがっちゃった人です。
読んでいて、まず頭に浮かんだのが、吉野朔美『恋愛的瞬間』の二巻。「秘密と嘘」に出てくる、心理学者にも手に負えない女子学生と文学部教授の、不倫。
「あなたは私のことを文学的感傷で愛している」
「肉体も魅力的だって知っているよ」
「私の不幸を愛している」
「君の不幸を望んだことなんかないよ」
「良心が痛むからよ。あなたは嘘をついていることを忘れているのね」
自分の不自由さに気づいていない。浮気をすることが、自由だと、思っている。
吉野朔美『恋愛的瞬間』小学館2002
女子学生はまちがっちゃてること知っている。でも葉子は何をまちがっちゃてるのか自分でよくわかってないのです。
まちがっちゃったというのは、沢山の遍歴を重ねたとか、不幸な最後を遂げたとか、そういうんではなく、しかも実際の坂本睦子の話をしているのではありません。
あくまで、小説『花影』の主人公、葉子、のこと。
坂本睦子は知らん人なので。モデルを想定してうんぬんというとき、あなたはその人を知っているのか会ったのかということを問えば、そうではない。なら、登場人物として素直に読もうではないか、どうですか。
直木三十五、菊池寛、小林秀雄、坂口安吾、河上徹太郎、大岡昇平とかとの関係、実際の坂本睦子に関しては色々書かれたものを読めばよい。大岡昇平が嫉妬や感傷や衝動をどう作品に昇華させたのかも、このさい、おいておく。
小説の主人公、葉子がまちがっちゃってるのはね、あのね、この小説の登場人物、高島とか言う人との関係。(この人が誰を想定してるのかももちろん、おいておく)
高島と葉子という女給との関係はいわゆる男女のものではない。肉体関係もなく、葉子が沢山の男に求愛されるさまを高島は全部知っている。それはいい、まあいい。しかし、この高島という男、完全に、葉子のことを読み間違えている。
ほだされやすく男性に愛されやすい葉子に「女給でいるしか道がない」的なことを言うんですよね、こいつは。
高島は骨董品の目利きなんかをしていて一時期はぶりが良かったのだけれど、そういう時期に出会って、葉子の庇護者的存在なのだけれど、この人に人生の指南や信頼を置いていたところが、葉子ちゃんのまちがいだし、おちぶれた高島が葉子への見方を変えないところもまちがい。
あのさ、葉子という女は、実は、もっとも夜の世界に向いていない女なのです。
はっきりしとくためにいうけれど、そのへんで私とおんなじ。
私は今まで二度、いわゆるホステスチックなことをしてみたことがある。一度は大学のレポート書くための一日体験入店。もう一回は民話伝承を収集するために滞在した石垣島での酒場。どっちも銀座だの、新地だのとは違う、特殊な状況だったし、そういうとこではできひんと思った。あの世界で強く生きていける女性の多くは、とっても地に足がついているのです。お金をもうけること、自分の足で立つこと、嘘も方便も自分の責任で引き受けられる事。悲しみを悲しみながら反発できる事。かっこいい女性たちなのです。男を喜ばす、という商売で自分を貶めない、男以上に漢なぶぶんがあるか、すでに10人くらい子供産んでるよ、に等しい気概がなければ、お金と虚栄と擬似恋愛の世界に飲み込まれてしまう。褒めて楽しませて喜ばして欲しい男の人を抱擁しつつ、彼らの自尊心すら守ってあげる、子育てと介護に通じるような感情労働なのです。
私のことを言ったのでついでに断言すれば、私のようなヘタレの泣き笑い顔ではつとまりません。
夜の世界のしろうとが、夜の世界につかる事などめっそうもない。
このへんのことを高島はわかってない。
ふわふわふわふわしていて、身の置きどころがなく、線の細い葉子という女性が、そんなことして壊れないわけがない。寂しがりの甘ったれの葉子が、ちょっと男を喜ばせられるからって、女給でいるべき、などという短絡をするこの男は、本当にしょうもない。葉子は世界においていつも居場所を探しているような、生き人形のような女です。喜ばせるのはわかってほしいから、受け止めて欲しいからなのであって、一人で生きられる女じゃない。そんな女が求愛の真ん中に放り込まれたら、体も心も自分から手放してしまうのだ。その程度のこともわからん審美眼の持ち主高島を信頼し、おちぶれてなお身の回りの世話をしていた葉子。一番慰安されていたのは高島だったのだよ。
不幸、というのはもちろん文学的です。吉野朔美の女子学生はもう少し達観していて、でも自分の不幸に耐えられないから、まるで自分を切り刻むように、文学的ダンディズムのミューズとして不幸を偏愛される関係を、受け入れる。でもかしこい女の子であった。一緒にいるときからその不毛さ、文学者の求める嘘の甘さと身勝手さ(しかもはてしなく前時代的)を、悲しい目で見てる。いつか終わる。もっとも悲惨な終わらせ方をするべきか、何も伝えず静かに終わるのか。彼女自身のある種の文学的不幸と、天秤にかけながら関係性を少しの間継続させている。
これは女子学生が、葉子よりもあとの時代の女の子、だからかも、しれない。根っこの感受性は近しいのかもしれない。しかし、否定の言葉を口にできるだけ、女子学生のほうが強い。女の子が人形ではなく言葉を持った時代において女子学生は時々、教授を言葉によって怒らせる事もできたのだ。葉子はなにも言わない。黙ってなげやりに微笑む。
でも、『花影』の冒頭、これは良かった。
「葉子は最初から男のいうことを、聞いていなかったのかもしれない」
『花影』大岡昇平 講談社文芸文庫 2006
聞けよ!お前も!しかし面白くなかったんだろうね、言えなかっただけで。
身の回りをきれいに整え、繕いものをし、来客のために美味しい食べ物を用意し、喜ばせることのできた葉子ちゃん。高島とかいう男は気がつかんかったのか。
葉子が向いているのは夜の世界ではなく、誰かに徹底的に愛され、肯定され、守られ守り、生活の微々たるものごとを構築していくために、のどかな微笑を微笑む事。時代が時代だから、それが妻であり母でありということになるのかもしれんけれど、お金を介さない晩酌をかたむけるために笑って、日々の生活の中でその繊細な機転をフル活用し、それを楽しんでくれる男の子のパートナーになることが、葉子ちゃんの幸せなのだと指南すべきだったのだ、アホめが。
繊細さの襞を楽しめるディレッタントさを自分以外の人間に向ける目を持ち合わせていない高島と、ステレオタイプなデレッタント(間違ってないよ、デレッタントだよ)に溺れる男たちの間で、結局葉子は、孤独だったのだ。
男と女の文化の楽しみ方が不公平だった時代、だからかもしれんし、私はフェミニストではないし、葉子ちゃんは男の子を好きだったのに、なんか最後にはなにもかも憎たらしく思っちゃうなんて、さみしい。
かわいく、たのしく、結び合うための、おりこうなやり方、それって男の子の女の子、女の子の男の子にある、という意味で私はフェミとはちがうアプローチをとる。しかし言葉でやりあうとき、その言葉はまだ開発されていないから、日常のありきたりの出来事から発明しているのでございます。
さて、話がぶっとびます。
この『花影』講談社文芸文庫ですが、解説が小谷野敦、です。私はこういう戦う思想家が好きです。中島義道とか。ないってーと思う主張にぶち当たる反面、そうだよな、があり、そうだよな感が強いから。アカデミックな取り繕いをしないので、共感が強烈なのです。
その解説、大岡昇平が芸術院会員を辞退したときのいきさつを結びにしております。
「むろんそこには、戦死した兵たちへの鎮魂と贖罪、そして責任をとらない者たちへの怒りが込められていた。青山も白州も小林秀雄も、美の審判者に過ぎず、その怒りを共有する人々ではなかった。政治や社会に目を閉ざし、漠然とした日本的美の世界を描いて読者を幻惑する人たちだった。」前同 解説 小谷野敦
大岡のほかの歴史小説には正直あまり興味がなく、この一人の女性を書いたものからしか彼の創作を知る由もないが、小谷野氏の度胸ある解説から考えるには、もし大岡の姿勢がこのようであるならば、『花影』の主人公、葉子に託して表現したかったものは、一人の女性に対する執着や死に対する感傷(それはぜったいあったと思う)以上に、文学や芸術や美、それにもとづく欲望や名誉、ということどもの間で翻弄される、どうしたってどうにもなんない、すくいきれない人間の生きざま、の話だったのではないでしょうか、どうでしょうか。
と書いていて、はたして私自身モデルと登場人物をどれだけ区別して読んでるのか疑問が出てきちゃった。
だってやっぱり舞姫のモデルが誰だったとか、気になるもんねぇ。
舞姫のヒロインモデル特定に新証拠。誰だよ!と思いつつも。
坂本睦子に関しても、きっともうちょい調べちゃう。
さて、もう一回り飛ばさせていただいて、戦う思想家、内田樹氏。ブックマークに貼ってますがコラムが面白いのに発見しにくいので、改めてご案内しておきます。
内田樹Simple man simple dream
これ、必読。なんだけどなんだけど、冒頭から逸脱しまくり。自由自在ですな、おい。
2010年11月8日月曜日
物語の物語が物語で。
ごぶさたしておりました。ようやっとネットを繋ぎました。
やはり不便でした。あまりにも情報難民。
電子辞書すら壊れていて、これ、言葉がどうでもよくなってたけど、
だめですね。岩波国語辞典引きながら、物語を書いていた。
仕事をし汗をかき文字を書いてた日々。
どうでもいいわけないだろう。
物語、300枚って言われてたのに420枚までいってしまい、先日お別れしました。
高校一年生の主人公が二年生になって、そこまでしか見守ることができなかった。
さみしいよ。
どうかどうか、笑っていてください。その先の物語を生きてください。
そして200枚までにしようと思っているもう一つ、君は、どうした。
どうしてそんなに、物語を拒否するの。
テレビもネットもない状態で、しかたなし、もとめるがまま私はこの数ヶ月、
物語を漂った。物語について考えたし、物語を書いたし、物語を生きていた。
物語。私たちを分節し、解体し、規制し、説明するもの。
「ほんとうのこと」ではないのかもしれない。
ただ私たちを解説しやすい言葉の地層に、私たち自身が自らを当てはめてしまうだけなのかもしれない。
それでも、物語でしか語れないものがある。
私はこの件に関し、いくつか感動していたのでした。
映画
私は二度、観ました。
大阪の国立国際美術館でやっていた<束芋>に足を運んだのがきっかけでした。
束芋の「断面の世代」という表現がひっかかってしかたなかったのでした。
団塊ジュニアである作者による、「団塊」に対する「断面」。
われわれの時代は、塊にはなれない。面でしかない。連帯も個人主義も貫けないならどうすりゃいいのか。
「団地層」「団段」という集合住宅をモチーフにした映像を見て、激しく揺れました。
個人的なコトを言えば、書いていた物語に「公団」を扱っていた、という事情もあるかもしれない。
いやしかし、そんなことじゃなく、インスタレーションだのアートだの言ってる物事が、こんなにもアクチュアリティを持ちえるのだ、という感動が大きかった。
そんなもん、語れません。
機会があったら、ぜひ多くの人に「参加」してほしい展覧会でした。
暑いさなか、これにまず二度足を運び、原稿は100枚くらいすすめつつ、汗をかきんと冷やされながら見入っていました。
そうして束芋による新聞連載『悪人』の挿絵に感銘をうけ、どんな物語なのだろうと興味を覚え本を読み、どんな映像になるのだろう、と映画を観たわけです。
美術館→書物→映画館、私は心に素直に旅をしました。
ほんらい語りようがないものを、これだけの媒体をつかって語ろうとする行為。物語が語られつくされたように思える現代社会のなかで、それでも物語が派生する以前のなにごとかを、語ること。
歴史は、いま、ここで、なんども出産されている。
「二人とも被害者にはなれないから」『悪人』吉田修一
本を人に貸しているので、例のごとくソースが曖昧ですが、この言葉。
純愛、犯罪、逃避行。
この物語の豊かさは枝葉の広がりを持っているけれども、
私はこの一言を「見たい」がために何度も何度も思い返したのです。
様々な事件、出来事が毎日毎日情報となって届けられる今日にあって「悪い人」はいなくちゃなんない。
実際、殺人者は悪い人です。
疑う余地もないんだろう。生い立ちも環境も関係ないんだろう。
物語る前にわかってしまっているこのコトを題材にしながら、きちんと被害者であるために加害者を探すということ、れっきとした加害者であることを引き受けること、でも誰もが加害者であり被害者でありその加害者であり被害者であり・・・・・・。
本当に悪い事ってなんだろうっていうの、今やんわりと時代が要請しているテーマだと思ってます。
それは別に、物事を複雑系に落としこんで混乱させるためじゃなく、例えば、被害者として怒る事、バカにすんなよ必死に生きてきたんだ、と言う事のためにだって。そういうシンプルな戦いのためにだって。あるいは、俺はやっぱり悪い人なんだと、ひれふすためにだって。
善悪の彼岸は、わからない。でもいつまでも、わからないわからない言ってはいられない。
じゃ、どう向き合えばいいんだろう。難しいよ、やっぱわかんないよ。
でも美術と小説と映画を享受しながら、私は同時に、現実を、私という物語に登場してくれた人の言葉を思い返していたのでした。
善悪の彼岸について語り合った時、大切な友人と交わした言葉。いや友人がくれた言葉だよな。
プライベート流出、やくそくどおり「いつか」は使わせてもらったよ。
「君は間違ってないよ。世の中も間違ってないよ。
人と人、人と社会がどうしても相容れないとき
相対的にどちらかが善悪を当てはめられているだけだと思うよ。
極論だけどね。
合ってるとか間違ってるとかじゃなくて、どうしようもないこと沢山あるよね。
社会的成否で世界はバランスをとってて、個人もそうだと思うよ。
あんまり思い詰めないで。
君は存在からして間違いじゃないから。
ただバランスをとるのが苦手なだけだよ。
おやすみ。」
読書をまったくしない、もうそろそろ10年来になるこの友達は、いつも「極論」を言う。
でもこれって極論か? 私は彼の言葉をときどき、直感的に「本物」だ、と思う。正しいか間違ってるかじゃない。彼という実人生の物語が生み出した本物なんだって思うのです。
しょっちゅう何事かを思いつめてる私ごときがこの時いったい何を思いつめてたなんてことはどうでもいい。じっさい忘れちゃったし。
でも、この言葉は忘れない、と思いました。そして、別の物語とめぐり合ったとき鮮やかに蘇ったのです。
記憶力のない、というかそもそも記憶という機能が壊れてませんかという私をして、諳んじられるほど繰り返した言葉の羅列。それだけのことなのに、それだけのことがこんなにも。本当にありがとう。
映画『悪人』は一度目を一人で、二度目を人と一緒に行きました。
一緒に見た人が
「素直な見方をすれば、誰も救われない物語、だよね。なのになんでか暗い気持ちにならない」と。
そう、なぜだか少し元気になる。きみょうに、やってやらなくちゃってなる。
80年代、90年代、ゼロ年代、もう随分前から、私たちは「戦う対象を喪失した」のだと言われてきた。
シュミット的に「政治なるもの」が、敵と友の峻別なのだとしたら、政治的なものなんてもうとっくに崩壊しちゃってるよ、なんだかなぁだよってなっちゃう。
そして「塊」になれない、「面」だけを漂う私たちの孤独の、なんとも言えない砂っぽさ。
でもさ、それももう古くない?
うちら、そんな醒めた視線で余裕こいてなんてられなくない?
くやしい、さみしい、やるせない、でも、頑張るんだって、ちょっと暑苦しいものがふつふつ湧いてこない?
これが何年代の感覚か、なんて知らんよ。わからないです。
でも<束芋>の世界にも、『悪人』の映画にも、不思議な懐かしさを感じました。
知らない時代、という懐かしさ。
あれら表現の、物語の、怒りと優しさと暑苦しさとうっとおしさと、むかつくけど頑張ろかいなの感覚。
これ、たぶん新しい時代の古さ、なんだと私、感動しました。
やはり不便でした。あまりにも情報難民。
電子辞書すら壊れていて、これ、言葉がどうでもよくなってたけど、
だめですね。岩波国語辞典引きながら、物語を書いていた。
仕事をし汗をかき文字を書いてた日々。
どうでもいいわけないだろう。
物語、300枚って言われてたのに420枚までいってしまい、先日お別れしました。
高校一年生の主人公が二年生になって、そこまでしか見守ることができなかった。
さみしいよ。
どうかどうか、笑っていてください。その先の物語を生きてください。
そして200枚までにしようと思っているもう一つ、君は、どうした。
どうしてそんなに、物語を拒否するの。
テレビもネットもない状態で、しかたなし、もとめるがまま私はこの数ヶ月、
物語を漂った。物語について考えたし、物語を書いたし、物語を生きていた。
物語。私たちを分節し、解体し、規制し、説明するもの。
「ほんとうのこと」ではないのかもしれない。
ただ私たちを解説しやすい言葉の地層に、私たち自身が自らを当てはめてしまうだけなのかもしれない。
それでも、物語でしか語れないものがある。
私はこの件に関し、いくつか感動していたのでした。
映画
『悪人』は皆さんご覧になりましたか。
私は二度、観ました。
大阪の国立国際美術館でやっていた<束芋>に足を運んだのがきっかけでした。
束芋の「断面の世代」という表現がひっかかってしかたなかったのでした。
団塊ジュニアである作者による、「団塊」に対する「断面」。
われわれの時代は、塊にはなれない。面でしかない。連帯も個人主義も貫けないならどうすりゃいいのか。
「団地層」「団段」という集合住宅をモチーフにした映像を見て、激しく揺れました。
個人的なコトを言えば、書いていた物語に「公団」を扱っていた、という事情もあるかもしれない。
いやしかし、そんなことじゃなく、インスタレーションだのアートだの言ってる物事が、こんなにもアクチュアリティを持ちえるのだ、という感動が大きかった。
そんなもん、語れません。
機会があったら、ぜひ多くの人に「参加」してほしい展覧会でした。
暑いさなか、これにまず二度足を運び、原稿は100枚くらいすすめつつ、汗をかきんと冷やされながら見入っていました。
そうして束芋による新聞連載『悪人』の挿絵に感銘をうけ、どんな物語なのだろうと興味を覚え本を読み、どんな映像になるのだろう、と映画を観たわけです。
美術館→書物→映画館、私は心に素直に旅をしました。
ほんらい語りようがないものを、これだけの媒体をつかって語ろうとする行為。物語が語られつくされたように思える現代社会のなかで、それでも物語が派生する以前のなにごとかを、語ること。
歴史は、いま、ここで、なんども出産されている。
「二人とも被害者にはなれないから」『悪人』吉田修一
本を人に貸しているので、例のごとくソースが曖昧ですが、この言葉。
純愛、犯罪、逃避行。
この物語の豊かさは枝葉の広がりを持っているけれども、
私はこの一言を「見たい」がために何度も何度も思い返したのです。
様々な事件、出来事が毎日毎日情報となって届けられる今日にあって「悪い人」はいなくちゃなんない。
実際、殺人者は悪い人です。
疑う余地もないんだろう。生い立ちも環境も関係ないんだろう。
物語る前にわかってしまっているこのコトを題材にしながら、きちんと被害者であるために加害者を探すということ、れっきとした加害者であることを引き受けること、でも誰もが加害者であり被害者でありその加害者であり被害者であり・・・・・・。
本当に悪い事ってなんだろうっていうの、今やんわりと時代が要請しているテーマだと思ってます。
それは別に、物事を複雑系に落としこんで混乱させるためじゃなく、例えば、被害者として怒る事、バカにすんなよ必死に生きてきたんだ、と言う事のためにだって。そういうシンプルな戦いのためにだって。あるいは、俺はやっぱり悪い人なんだと、ひれふすためにだって。
善悪の彼岸は、わからない。でもいつまでも、わからないわからない言ってはいられない。
じゃ、どう向き合えばいいんだろう。難しいよ、やっぱわかんないよ。
でも美術と小説と映画を享受しながら、私は同時に、現実を、私という物語に登場してくれた人の言葉を思い返していたのでした。
善悪の彼岸について語り合った時、大切な友人と交わした言葉。いや友人がくれた言葉だよな。
プライベート流出、やくそくどおり「いつか」は使わせてもらったよ。
「君は間違ってないよ。世の中も間違ってないよ。
人と人、人と社会がどうしても相容れないとき
相対的にどちらかが善悪を当てはめられているだけだと思うよ。
極論だけどね。
合ってるとか間違ってるとかじゃなくて、どうしようもないこと沢山あるよね。
社会的成否で世界はバランスをとってて、個人もそうだと思うよ。
あんまり思い詰めないで。
君は存在からして間違いじゃないから。
ただバランスをとるのが苦手なだけだよ。
おやすみ。」
読書をまったくしない、もうそろそろ10年来になるこの友達は、いつも「極論」を言う。
でもこれって極論か? 私は彼の言葉をときどき、直感的に「本物」だ、と思う。正しいか間違ってるかじゃない。彼という実人生の物語が生み出した本物なんだって思うのです。
しょっちゅう何事かを思いつめてる私ごときがこの時いったい何を思いつめてたなんてことはどうでもいい。じっさい忘れちゃったし。
でも、この言葉は忘れない、と思いました。そして、別の物語とめぐり合ったとき鮮やかに蘇ったのです。
記憶力のない、というかそもそも記憶という機能が壊れてませんかという私をして、諳んじられるほど繰り返した言葉の羅列。それだけのことなのに、それだけのことがこんなにも。本当にありがとう。
映画『悪人』は一度目を一人で、二度目を人と一緒に行きました。
一緒に見た人が
「素直な見方をすれば、誰も救われない物語、だよね。なのになんでか暗い気持ちにならない」と。
そう、なぜだか少し元気になる。きみょうに、やってやらなくちゃってなる。
80年代、90年代、ゼロ年代、もう随分前から、私たちは「戦う対象を喪失した」のだと言われてきた。
シュミット的に「政治なるもの」が、敵と友の峻別なのだとしたら、政治的なものなんてもうとっくに崩壊しちゃってるよ、なんだかなぁだよってなっちゃう。
そして「塊」になれない、「面」だけを漂う私たちの孤独の、なんとも言えない砂っぽさ。
でもさ、それももう古くない?
うちら、そんな醒めた視線で余裕こいてなんてられなくない?
くやしい、さみしい、やるせない、でも、頑張るんだって、ちょっと暑苦しいものがふつふつ湧いてこない?
これが何年代の感覚か、なんて知らんよ。わからないです。
でも<束芋>の世界にも、『悪人』の映画にも、不思議な懐かしさを感じました。
知らない時代、という懐かしさ。
あれら表現の、物語の、怒りと優しさと暑苦しさとうっとおしさと、むかつくけど頑張ろかいなの感覚。
これ、たぶん新しい時代の古さ、なんだと私、感動しました。
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