「出産方面」

2011年2月24日木曜日

引越し・アマレット・ポジティブ

笙野頼子の『居場所もなかった』(講談社 1993)は引越し小説です。

鳥はいいなあ、住民票がいらない。(P11)

というように、作家という社会的には「なにをやっているのかよくわからない」つまりは所得証明とか屋号とかね、色々会社勤めとは異なるかたちで「何者なのかはっきりさせねばならない」作者の、住む場所探しにまつわるお話ですが、いつもどおり怒ってます。

作者の他作品における怒りや、男性社会云々についてはちょっとつっこむ体力が私、ないです。ただ「住む場所探し」と「何者か」問題に関しては、大いに興味があるところ。切実だという点でもね。学校、とか、会社、という属性をなくすと世の中は思った以上にメンドクサイです。

私も十代の頃から「住む場所探し」においては「何者か」を説明する用意をしなければならなかったのですが、「なんとかする」っていうのが生きるって事にはふんだんに含まれている。現実に対する不満と共に「なんとかする」を並行に進めてく。そんなよくある学びの洗礼をうけた程度の話です。

この小説の面白さは「なんとかする」をしようとする中での怒りが、作品に昇華する醍醐味です。ぱらぱらと読み返してみました。

暴走族やトラックの騒音に対する怒りボルテージ。騒音とは、騒音を出す側がこちらの拒否を押してでも関わりたいという意思表示ではないかとし、「暴走族の愛だ。ライフルの愛でこたえてあげなくてはならないのか・・・・・・」と、相手を打ち落とす妄想をする。(大意)
そんな描写があるのですが、怒りを愛と変換するという怒りの大きさ。

私はさ、なんだかこの怒りと寂しさに共感しきる事も同情する事も笑う事もできず、ただ一人の部屋で煩悶する女の姿を思うとページをめくる手が止まらなかったです。読むっていうのはなんてこと、読んでいる自分のイヤラシさや残酷さを感じもするけど、まあそれは別の話。

他にもさまざま、「何者なのかよくわからない」立場の人間が住処をさがすときのタイヘンさと怒りボルテージが細部にわたり書き込まれています。
大家との面接審査に際し「適した」服装を不動産屋から提案されたり、イギリスでは無職が一番尊敬されるとか嫌味を言われたり、才能があって素晴らしいことですが家賃がとぎれたらどうするの、そもそも暗い人は大家に好かれない、暗くて芯が強いなんて最悪で交渉すらできない、などなど、部屋ひとつ借りるのでここまでの人権侵害。

酷いよね。沢山の人が怒りを感じるのは無理もない。
でもさ、怒って変わる物事って実はそもそも脆弱なのかもしれない。

確かに属性がないのはメンドクサイ。でもそれを要請され「なんとかする」を繰り返してみて、私は本当に属性がないのかしら、と思った。ていうか、自分はどこにも属していない=「居場所がない」のはそうなんだけど、それ嘆いていてもしょうがない。だってあらゆるメンドクサさのうちの一つを引き受けてるわけなんだから。で、会社とか学校という類の属性はないわけなんだけど、もういいや、属性がないことに固執するのもバカらしいし、なんらか通用する属性を作っちゃえ。それを名刺のように提示する。それくらいの虚実の不条理さに耐える程度には自分を鍛えねばと思った。
そうして虚言のような戯言のようなぺらぺらの紙をふりかざして、切り抜けてみて、別にそれだって私の属性の一つではないのか、と。
それにさ。
問題は、属性なんかじゃない。
「居場所もなかった」というのはそんな紙の切れ端のようなもんでどうにかなる感覚ではないのだから。

なんて、随分前に読んだ本の話をしているのはですね。
私がまたもや、引越し、をするからであります。
京都在住十年目にして、七回目。頭おかしいですね。しかも現在色々重なってて忙しい時期なのですが、もう引越しっていうのは私にとって、メンドクサイを通り過ぎた何かになっているのでしょう。人生においてはトータルで何回しているのか数えたくもありません。

でも今回引越しをするのは、「もうしばらく引越しなんかしない」為、なのかも知れません。
「居場所もなかった」と「属性」と「住む」というテーマは今ぐるりと巡って、一つの束になろうとしています。
まぁ引越し好きの物件マニア、交渉マニアであるのは事実で、次回はも少し軽い感じで、「京都物件事情」「デザイン?オア習慣?」「シェア?オア共同生活?」「住まうという運動(←確かなんかのパクリ)」「私の引越しサーガ(そんなこと知りたい人いるか疑問)」などといった内容について書こうと思っています。こんなタイトルだけなら、湖の底から出てきた奴が銀の斧を大量に投げつけるがごとく湧いてきます。

ともあれ。
メンドクサイ手続きをしつつ、居場所なんて、居場所なんて、見つけるし作るんだもん。

2011年2月7日月曜日

見慣れちまった悲しみに

二月に入って時々暖かい日も訪れるようになりましたが、まだまだ冬ボックスの中ですね。皆さんお元気でしょうか。私は風邪ひいて治りかけてまたひいて治りかけたりしています。

日常がどうあれブログの更新と排水溝の掃除は定期的にしたいと思うこの頃です。喩えっていうのは幅が広すぎるので、排水溝なんて書いたらブログに汚水を流し込んでるみたいやんかと自分の文章を深読みしすぎて右にも左にも動けなくなりました。

言葉通りの意味で受け止めていただけるとうれしいです。ブログの更新と排水溝の掃除とまな板の除菌は定期的に行いたいものです。

というわけで、ブログのテンプレなどを先月さりげに変えました。そしてこのエントリの下書き、日付が一月24日になっています。二週間近く経ってらぁ。怖いよう。

そしてもっと怖いのは、見慣れちまった愛着という悲しみでしょう。

私のブログは更新の間隔が広いくせに一回のエントリが長い、話がくどい、話が長い、話が回りくどい、論理崩壊してるのになんか説教くさい、時々不気味なほど感傷的、などなど色々ご意見をうかがっています。まあ長いとかくどいとかは性格に起因する部分も多くて、ある程度生きちゃってるともうどうしようもないかな、と思うのですがまだ治りますでしょうか?

ともあれ、文字の大きさや数字の書体など色々気になっていることがあったので、テンプレごと設定を手直ししたのですが、見慣れちまった悲しみは大きかったです。

ブロガーさんはシンプルでガジェットの移動などデザイン変更しやすいところが好きですので、画像取り込みなどはせずにシンプル背景を活かしたい、という基本姿勢に変化はありません。
しかし、変化なさすぎだろこれ。
背景とか構成、変えるんだったらもっと変えろよ。
しかしこれでもテンプレ自体変更してますし、アドバンスにいたっては細かくいじってます。
誤字、固有名詞の誤入力が多いので、取り消し線の導入、タグ画面自体の入力文字を大きくするなどセルフモラル向上委員会も設置してハチマキまいたり旗振ったりしてました。
けれど途中で、「限りなく元のデザインに近づけようとしているブルー」に気がついてしまったのです。まだ君を思い出とは呼びたくないんだとか言いながら作業を続行し、結果このような、なんか字はでかくなってるけど全体の印象はかわんない、というデザイン更新になっております。

一回好きになったらずっと好きよ。
この一人上意下達的人生の指針がここでも活きまくっていますが、マンネリズムとの戦いはどうするんだ。生きとし生けるものはすべて移ろいゆく、だから寂しくなんてないんだよ、と自分を慰めてきたけれど、変化ゆえのお別れだってあるのです。

まぁ、とりあえず、また長いとか言われますのでこのへんにしときます。長いくどい問題も変化しなくていい、なんて上から目線であぐらなど、かいていませんよ。

2011年1月19日水曜日

恐山、いきたい

恐山に行きたいです。

夏が好きです。元気です。
じゃあ冬は嫌いなのかと言われると、そうじゃない。寒いの苦手だけど。
冬が嫌いだからって夏が好きという論理展開は「否定快楽原則」です。知りませんか?知りませんよね、4年位前に私がつけた名前ですから。そしてこの原則に負けない!負けたくない!と4年位前に名前をつけたそばから戦う決意をしたのでした。

「否定快楽原則」のスタンダードな文脈は「冬が嫌い、ゆえに夏が好き」です。これはいくらでも応用可能だし、ちょっと難しめの本もよくよく読んでみたらこの原則、制度イデオロギーも、ていうか選挙すらこれじゃぁねーの。できたら心太は食べたくないけどカキ氷よりましだから好きだったことにするとか、この季節ならほぼ我慢大会ですね。ただ人はっていうか私はこういう心理操作をして自分を欺こうとします。泣く泣く選ぶしかないからってあたかも好きだと暗示をかける。自己防衛としては有効かもしれません。そういえば松浦理英子『親指Pの修業時代』に、好きでもない人を好きと自己暗示かけるというビジネスを考え出した女性が確か登場したけれど、ビジネスを終了させたときにどうやって自己暗示を解くのだろう。と話がずれたので。

おいといて。
生きるってことはほぼ泣く泣く選ぶ事の積み重ねなわけなので、なるべく泣く泣く選ぶしかなかったことは、泣く泣く選んだのだ、と自覚しておきたい。
私というのは、防衛がどこか破綻した国家であり、ペンタゴンとかあってもグダグダなのでしょうか。常勤職員が衛星見はってるふりしてソリティアやってるみたいな勤務態度なのでしょうか。
自己暗示かけて自己防衛するということの必要性はある程度生きてるとわかってもいいもんだけど、別に清純だとか、そんなんじゃなく、そんな生ぬるい話ではなく、ただ、国防総省はグダグダでも理念だけはでかい国、なのかも知れません。国である限り清らかとかあるわけないだろうが。手は汚してますよ。背理もありますよ。存在しているだけで他から搾取してますよ。

でもね、清らかではないにしろ、嫌いなものを否定するため反転した好きを捏造することはできん!何故なら、「私はそんなものが嫌いだからこれが好き」という文脈で好きを躍起させると、好きなものを好きでいたいのか、嫌いなものに対する否定を強調したいために別のなにかを好きなのか、その境界が濁ってくるのです。好きなものはただ好きでいたい。そして好きでないものを泣く泣く選んでしまったのは状況が原因のときも自分自身が原因のときも、どっちもありうるというキツさを忘れないでいたい。好きじゃないものを否定したり見下したりするのではなく、なんで好きじゃないんかなぁ、と時々ぼんやり考えることの方が窮屈じゃないし、ごまかすために好きを使いたくない。故に、「否定快楽原則」否定!とアジテーションしたわけです、自分に対してね。

普段の三割り増しの回りくどい文章とちょっとした暗さからもお察しいただけるように、冬はいろいろと機能が低下します。特に現実社会に対応する面。仕事営業意欲などライフラインを左右する事柄から、ゴミ出しなどのルーティーンに至るまで。しかし読書や書き物などはそうでもない、そうでもない、と言い聞かせますが、本のセレクトが偏るので気をつけねばなりません。シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』は落ち込みました。夏に読むのと手触りがまったく違う、冬には危険だとわかっていても読み返してしまう、わかっていてもこうして話がずれていく。

恐山に行きたい。

いよいよやばいのかと思われるかも知れませんが、いや実際、寒いと体がしんどいんで切実なんですが、冬の空気はキリッとせざるを得ないかんじでいいし、お風呂入った瞬間の指先びりびり感もいい。生きてる間にあと何度このかんじを味わえるのかと思ったら、なるべくこのかんじを楽しみたい。だから恐山に行きたい。

以前青森に一人旅したのは二月で、三沢の寺山修司記念館と金木町の太宰治「斜陽館」に行き、合間の温泉宿を転々としました。寺山修司記念館は朝から閉館までいて、その間私以外に一人しか来館者がなく時間が止まったような、空気が止まったような。冬はバスも運行停止なので三沢からタクシーで行くしかなかったし。五所川原から乗った津軽鉄道でおばあちゃんから車内のストーブで焼いたスルメと日本酒をもらいました。五臓六腑にしみわたる、とはあの事だと、そしておばあちゃんの深い皺が忘れられません。ヴェルレーヌのあの一節が書いてある文学碑を見に行くため「だけ」に買ったホーキンスのスノーブーツでは太刀打ちできん積雪で、あげく文学碑自体が雪に埋もれて近づけないという。
そんなことしてて、恐山には行けなかったのです。真冬の恐山。通行止めなんじゃないの?と思うし、さすがにイタコもいないと思うけど、行きたい。そして心ゆくまで「寒いわ!」と言いたい。

ていうか「否定快楽原則」とか言葉捏造する以前に、どうにかして苦手な寒さを好きになってごまかそうとしてないか、という問いが、書き出してまもなく湧きました。

しかし、寒さは苦手でも冬は嫌いじゃない。
東北の雪の美しさは格別で、音を飲む。で小さく小さくはきだしていて、光って、きれい、なのです。

季節の美しさにはいつも手が届かないし、うつろうことのどうしようもなさはどうしようもできないけど、例えば変な磁石みたいなもので四季を操れるような強大な力を持っても、たぶん春も夏も秋も冬も、めぐらせてしまうのだと思う。寒さは強烈な暖かさも運んでくれますから。

2011年1月6日木曜日

さよなら、かんりきょういく

年末年始のさまざまなイベント時期に、ブログ更新できなかったのはもちろん私がリア充だからです。
この二三週間の美しき寝乱れぶりはツイッターのPOSTで簡単に露見しちゃうんだから、怖いな、ツイッターかわいいな。
ところで、いま軽く二三週間、と書いて、実際は確実に三週間経っている恐ろしさから目をそむけようとしましたよ。数字のこういう濁し方は任意であれ無意識であれ、巧妙です。

三週間、そう、この月曜日だの水曜日だの日曜日だのが三回来るシステムは時計台が都市に出来たからっつって人間が時間に支配されたうんぬんかんぬんくらい、考えたところでどうしようもないよね。でも週に一回くらいは考えちゃうけど。

で、年末年始のさまざまなイベント時期に2010年を振りかえったり、新年の抱負を書いたりせずになにやっていたのかと言えば、ライブ、映画、映画、ライブ、リア充満載です。ていうか、手帳見ないと何日にどこ行ったかわかんないくらい!うわっ書いてて自分でむかつく。実際はゴロゴロしたり飲んだり飲まれたり、で反省して年明けすぐトレーニングに移行しちゃう小心者ぶりがさらに腹立つんだけど、実際、生きてる間はなるべく身軽くしんどくないようにいたいんだよ。

ただ、映画、ライブ、映画、映画、って、基本的に人様の表現を消費しているわけですよね。素晴らしい消費資源が沢山、読書や展覧会含めたら、私の一年なんぞ表現消費ですから、振り返ったり抱負を述べたりするまでもないかもしれないです。

と、年明け一週すぎて始めてます、振り返りです。毎度の事ながら観念と感傷と言い訳だけかもしれないけれど、エントリータイトルの管理教育はまったく関係ないかもしれないけれど、驚くべき論理ねじ曲げでたどり着くのかもしれないけれど。

年末年始気分の底なし沼からどろっとした足を踏み出そうとしている皆様と共に、私もちゃちゃっと過ぎ去りし年度と来たりし年度に線をひく。鋏をいれとく。

2010年から11年にかけてざくっとイン・アウトしたこと。

①関係性のかたちなぞ、いくらでも変わってく。それがさみしかったりやるせなかったりする時、あえて「手を離す」選択をすることで、大事な気持ちを逆に守れる、っていうこと。私小説レベルに個人的なことなんでそう書けないけど、友達、とか、家族、とかいう言葉が結局私のテーマなのだった。 

②美に関する積年の疑問、「怖いものや醜いものに美しさを感じる」という感覚の反転した権力と、それでも対抗しなきゃなんない権力のありかについて。結局権力闘争そのものが無意味だと思い知った。私だって野に咲く花に美しさを感じる。でも悲しみや苦しみにも美しさを感じることがそれより高い感度なのだという視点じたい、馬鹿げてる。し、閉じてる。ひとの眼球とそこから脳につながる神経作用など、どうこうなどできないし、したって面白くもなんともない。そもそも経験だって違う。私はニーチェと同じく自分が経験しえなかったすべての経験に嫉妬するけれど、その嫉妬を楽しみたい。凝視ではない、想像力だけがその呪縛をといてくれるから、美の二分法など、それこそ「手離す」。そのうえで、美しいものはただ美しく純粋だとかいう退屈な話も手離して、飛んでみたら、めっちゃ楽しくなった。

③そう、楽しい。素晴らしい。そういうものが多すぎる。ここで所謂「新年の抱負」をビルトインする文脈に私自身が一番びびってますが、今年はね、楽しいもの、いいもの、ステキなものを、じゃんじゃん感じて伝達していきますよ。だって、それ楽しいんだもの。
そもそも、「破滅派7号」のアサミ・ラムジフスキー氏の短編、「グッバイ、ララバイ」がマジ面白かったんです。え、年はさんでまだ言っちゃうの?とか、同人が同人褒めまくってどうすんの?とかあるでしょう。わかってますから念のため年明けてもう一回読み直しましたが、寝転んで読んだって一行目から素晴らしいです。本当は年内にもう一回宣伝しまくりたかった素晴らしさを今やってるだけ。ご本人は音楽活動やあらたな展開されていて、ブログも面白いし、今更かもしれないけれど、いっぱしの読書家気取りでいる私をして、2010年かなりのヒット作品。もっと読まれるべき作品。買ってみて。私の作品ももれなく同じ雑誌にあるからじゃないよ、そうじゃないよ。むしろ恐縮で、私も精進しようと思ったのだから。

④こういう楽しさも、ネットを復活させ、ツイッターをがっつり楽しむようになって享受できた部分は大きい。「がっつり」とか「ガクブル」とかその他色々古かったり更新されたり揶揄される言葉にある力というかテンションを楽しんでいるので、それが下品とかいう話はもう無視しちゃう。まったく好みの問題で例えば「イマサラワロタ」とかはなんとなく感性が許さないから使わないだけです。下品と上品は美と醜に呼応するので、結局想像力です。べつに怒ってません。だいたい、前項の「読まれるべき作品」というのもツイッターにおける高橋源一郎氏の「読まれるべき詩」のパクリです。でもさぁ、この時代においてオリジナリティとかじゃないでしょ、剽窃で積み上げられているからって原典辿って何が面白いの?
とはいえ、もちろん原典を読む楽しさも満開ですよ。それはぜんぜん違う体験。

⑤素晴らしいものは素晴らしい。古典だろうとラノベだろうと。巨匠であろうと商業デザインであろうと。権威とお金が対立するとかドロドロであるとかいうつまらん議論をやめて、うろこばりばりの光ったものを涙のようにこぼしながら見てみる。そして感じた上で伝達する。もっとも幸福な手段が褒めることで、無論いいと思わないものを褒めることなどできません。でもいいと思わないものをわざわざゴーグルはめて探す人生など、嫌じゃ。

⑥結局言葉であって。愛してる、という言葉を発する自分を覗き込んでみるとそこには空洞しかなかった。だから、愛している、などと魍魎な言葉を乱用してはならないと痛感した若かりし日を経て、あえて愛していると言ってみたとき、本当に、真実、愛しているかどうかではなく、愛という言葉の真理ではなく、その言葉を発することによって起こる現象を愛しているのだと知った。・・・という、内田樹氏の本は沢山読んだのでどこからの引用かはっきりできませんし、誤読があるかもしれません。ただ、言葉の限界や不自由さを憂いて見せるのは、一瞬かっこいい、って思うときもあるけど、私はその言葉の無責任さ含め発してしまった共犯性、伝えてしまった故に担わなければならない罪、を背負うほうがかっこいいと思うのだった。

⑦ふわっ。まさかここまで来るとは思わなかったけれど、褒めるといえば元旦の事。土鍋買うため通過地点の八坂さんに成り行きで初詣しようかと、連れ合いと歩いてた時のこと。少し前を歩いていたおじさんが落とした手袋を、連れが小走りで拾って声かけたんだよね。人が落としたものを拾って届けるというの、色々数年体調とかしんどかったのに自然にできて、すごくいいところで。そういう要素が身近な人に沢山あるのね、と。人なんてわかりきれない。カテゴライズが想像力をしぼませるならきっぱり、反発する。年末会った友達もそうだけど、言葉で定義できない行為があるから、褒めたりなんやかんや、言葉はぐるっと本物になる。

⑧ふわわっ。限りなく予定調和的に見えるかもしれないけれどガチです。管理と教育ってすごい言葉を組み合わせたもんだなぁ、程度に思っていただけなのに、まぁ管理教育地域と認識される土地で生まれ育ったのでそれなりに思うところがないわけでもないけれど、適当につけたタイトルにねじ曲げて戻ってきた。このへんはさすがなので自分を褒めて面白い小説書こう。なぜなら、ステキだと思うことを褒めて、それがいかにステキかを伝えたい。伝える説得力を持つ意味でもいいもの書きたい。そんなことが目標であって、追い詰める教育、啓蒙、なんてさよならですよという話。ややこしくてすみません。いやべつに、ずっと前からさよならしてたのだけど。ゆとり教育とか難しい問題はあれだけど。ステキな事が沢山で、それは美醜の枠組みをさっと超える。

え、ていうか、これが振り返りと抱負ですか。
始まってるような終わってるような。ぐるぐる巡って繋がってるような。

2010年12月15日水曜日

まったくさっぱり、それそれそれそれ。

寒いので、ロシア。なんか釈然としないのでロシア。
そんなわけがあったのかなかったのか、ゴーゴリを読み返してみました寒い朝。

《だが、もしかしたら思い違いかもしれないぞ。そうむやみに鼻がなくなる訳はないから》

《畜生め! なんという醜態だ!》彼はそう口走って、ペッと唾を吐いた。《せめて鼻の代わりに何かついているならまだしも、まるっきり何もないなんて……》

「―――だって、あなたは―――このわたくしの鼻ではありませんか!」
 鼻はじっと少佐を眺めたが、その眉がやや気色ばんだ。
「何かのお間違いでしょう。僕はもとより僕自身です。―――」

が、何より奇怪で、何より不思議なのは、世の作者たちがこんなあられもない題材をよくも取りあげるということである。正直なところ、これはまったく不可解なことで、いわばちょうど……いや、どうしても、さっぱりわからない。第一こんなことを幾ら書いても、国家の利益には少しもならず、第二に……いや、第二にもやっぱり利益にならない。まったく何が何だか、さっぱりわたしにはわからない……。
 だが、まあ、それはそうとして、それもこれも、いや場合によってはそれ以上のことも、もちろん、許すことができるとして……実際、不合理というものはどこにでもありがちなことだから―――だがそれにしても、よくよく考えて見ると、この事件全体には、実際、何かしらあるにはある。誰が何と言おうとも、こうした出来事は世の中にあり得るのだ―――稀にではあるが、あることはあり得るのである。

          「鼻」ニコライ・ゴーゴリ 『外套・鼻』平井肇訳 岩波文庫 1965
                                    太字筆者

なんか誰かの鼻がなくなったらしいというのはお伝えできますが、とびとび抜粋。
全体のお話が知りたいという向きには、読みやすい読みにくいは意見の分かれるところでしょうが、確か「青空文庫」にも出てるかと思います。

19世紀前半の帝政批判かも!とかいう難しい話は、難しい話が好きな方々におまかせします。
鼻が朝食のパンに挟まっていて、それはアイツのだとすぐにわかって・・・・・・
あらすじを説明するなどくだらないこともやめておきたい。

それにしても、落ち着きます。
四段目なんてあなた、まったくさっぱり、それそれそれそれ、ですよ。
私はわけがわからない。そしてまったくさっぱり、わけがわからないことに安堵するのです。
だって、この世の物事で、いったい、わけがわかっていることなどあるのか。

私は、わけわかったかんじ、に時折なる自分を蔑む。
私は、どうせわかんないから、と放棄する自分をバカにする。
私は、でもわかりたいから、と思索しようとする自分を揶揄する。

けれども。
「書いたところでまったく国益にならない」わけのわからなさが、わけがわからない私と私の世界を鏡に映すとき、その像だけは「ありえるときにはありえる」と思うのでした。

それはまるで、夢のよう。
うつつは夢で、夢こそまこと、などとあたりさわりのないレトリックで逃げるつもりはないけれど。
目に見えているものを見るのだとして、見えないものはどうするの。
見えないけれどあるのならどうするの、という事に四半世紀も悩んできたのです。
ごめんなさい嘘です、そんなに長くないかも。あと悩むとか大げさかも。

どう甘く見積もっても、夢を見続けて生きるわけにはいかない現状です。
起きなさい、目覚ましときなさいと言われてるわけです。

でもね、冬は寒いのです。
お布団が暖かいので、できればずっと眠っておいて夢を見ていたい時もあるのですよ。ふわっふわの毛布の中で。

そうして私は夢の中、あいかわらず、自分がここにいることさえもわけがわからない、という重度の中二病を再発しそうでドキドキしますが、目覚めたとき、夢のわけわからなさぶりに驚いて、蔑んで、バカにして、揶揄しながら、もう一回ちょっと考えてみようかとなるのです。

あるかないかなんてわかんない。
でもありえるときにはありえる。
そのようなあいまいなもののなかで、生きているのです。
言葉なんて擬制だよとかいう話は、聞き飽きました。
この全体的な擬制の中で生きている限りにおいて、何故ゆえ言葉だけが、「言葉では語りつくせない」という言葉を持っているのでしょうか。

原文から訳文にとんでる段階で、まったくさっぱり、それそれそれそれ。
こうなっちゃってる文字そのものに、私は惚けて、ちょっと楽しくなってきて、でも、それそれそれそれ、ではない言葉も捜してみたいと思うのです。

おお、やる気でてきた。
なんて言葉も揶揄しながら、受け入れとるわけです。

2010年12月6日月曜日

祭りのうらがわ、世界のうらがわ

あれほど、「ひらかれたヲタ」をめざそうね、と誓ったにもかかわらずです。
昨日の文学フリマに関して、私がとった行動には、色々反省すべき点があるのではないでしょうか。いや、総括すべしなのだ、そうなのだ。

仕事が終わってしばらく、「pocketパンチoh!」1969年12月号を読んで気持ちをスライドしていたのだけれど、ツィッターったら、もう。
ばんばん流れていくタイムラインに対し、ひたすらRTしまくったり、見ず知らずの参加者さんのつぶやきに返信したり、「おかんきたー!」などなど楽しそうな発言を登録したり、さりげに出身大学あかしたり、もうなにやってんだか、祭りで腕まくりして浴衣着崩しちゃうより恥ずかしい盛り上がり方、いん、ハッシュタグ、でした。
いやほんと、行ってないのに言葉と写真の羅列なのに臨場感があって、ツィッターありがとう!とさえつぶやきましたよ。おそらく「行けない」からよけいなのだと薄々わかってはいたのだけれども。
私は、「文フリRTレジスタンス」と化していたのです。(あえて抵抗しない)

しかしこれがツイッターの恐るべきところで、いざハッシュタグから出てみれば、フォローしてる方々のそれぞれの分野、生活、さまざまに、いつもと同じようで違うけれど、少なくともそんなに祭りではない日常がすすんでいるのでした。
そうです。

べつに、世界中が文学フリマをやっているわけではない。

という驚きの事実。
ああーびっくりした。中心なき世界の広大さですよ。

しかし考えるまでもなく、スペインでトマト投げつけて大騒ぎしている間に、こちらではモッツァレラチーズとトマト並べてオリーブオイルたらしてワインかたむけていたり、猛牛追いかけたり蹴り飛ばされたりしてる間に、鹿児島あたりでバスの車窓から静かな放牧牛を眺めていたりするわけです。
ハレとケに片足ずつ突っ込んだ状態から、しばし冷静さを取り戻しました。

そしておなじみ青井の本題ずれってってますよ話に進んでいきます。
けれどお断りさせてください、お詫びと共に。
このような脱線は必要なのです。俺の話を聞け2分だけでもいい、と剣さんも言っています。5分かもしれません。でもお話とは本来、複雑に入り組んでるものではありませんか(まったく論理になってません)。

さて、ひととき冷静さを取り戻した私は、いったいいつからこんな「祭り」な事に盛り上がれるようになったのだろうと思ったわけです。
学園祭とか文化祭とか「なんとか祭」と名の付くものにうろたえ、周囲が盛り上がるほどに冷めていったり、逆に孤軍奮闘して虚脱したり、祭りならずとも「球技大会」すら苦手で、学校の敷地内から逃げ出したりしていた私です。
今年の祇園祭だって、祭りで混むじゃんまいっちゃう仕事あるんですけど、とか言って交番を訪ね、交通規制ふくめた世間話をするという、なんだか斜にかまえた行為を二回もしていました。

けれど半面では阿波踊りを習得しているなど、あんまし人に言わないスキルもあり、徳島までマジでフェリーに乗って風の旅団のような集団行動をした経験もあります。
三田村邦彦が離婚後、つきものを落とすかのように踊り狂っていたのを記憶しています。
そして阿波踊りのリズムは、いまも私を高揚させるもののひとつでもあるわけです。

そう考えてみると、私の「祭り好き」ぐあいは年月を経て、阿波踊りの反復カタルシスのように、徐々に徐々に余分なものが浄化されてきたのかもしれません。みんなキラキラしてハイテンションな四月はけだるい、とかいう本質を凌駕するほどに。

でも文学フリマと阿波踊りは、ぜんぜん関係ないよね!

など頭ふってるうちに文学フリマ、トークイベントのダダ漏れ中継がはじまってしまい、再び靴下を脱いで、そっと片足を祭りに突っ込んでました。ハッシュタグ、という小さな世界に溺れながら。
ていうか、そんなんなら仕事終わってから行っちゃえばよかったじゃん!

世界の一部で、好きなものを持ち寄って、ときどき喧嘩しちゃったりしながらも、この先、を作っていこうという動きは、やっぱりステキです。来場者数が年々増えているようで、どうなっていくのかしら。
私なりに関わっていこう、ずっと好きなものに、などと思ったとき、目の前にあったのは「pocketパンチoh!」。

この本を買った古道具屋さんのご主人、40年前に好きだったものについて今も熱弁ふるうって結構すてきオヤジ、だよなぁとか。

オタクっていう言葉が出現してたぶん30年くらい。30年なんて宇宙レベルでは、今なんか目の前通った?程度でしょうが、一個人の人生にとってはかなりな時の配分です。今をとりまく新たな言葉の何が消え、何が残っていくのだろうなど、またもやズレまくりのことを考えていました。文学フリマという祭りの裏で。

さておき、破滅派売れ行き好調だったようでなによりです。
祭りの後、も続く日々、書いたり読んだりも続くのであろう。

2010年11月30日火曜日

後ろ向きのまま疾走せ。

書いてて思ったんだけど、絵的に想像すると笑えますね。
後ろ向きに疾走は。すごく早かったりするとよけい。

がばいばあちゃんは「後ろ向きでは歩きにくい」といってたそうです。やずやかなんかのCMで。
歩きにくいなら走っちゃえば。

そんなわけで私の参加する『破滅派』紙雑誌版七号、です。



早めに情報公開するから早めに告知&宣伝をすべし、という建設的な戦略ということで、WEBおよびツイッターで急いで宣伝です。疾走宣伝。早すぎると光に近づくという原理、なんかありましたよね!

内容はこちら。
12月5日の文学フリマでまず販売です。

青井は新作短編小説「「妄想風俗店」」が掲載です。「」いん「」です。そんな細かいとここだわるよりもっとキャッチーな題名考えろぼけ、それと、自分のこと青井とか言うな。
最近、時々試してみたくなるのです。「エミってねー」とか自分で自分の名前いっちゃうかんじ。(エミにはまったく他意ありませんごめんなさい)「まゆまゆはぁー」とかくりかえしバージョンもやってみたい。
それは誰だい、私だい。そんなやりとりしてみたく、青井は、などと時々言うかも、言わないかも。

今回は当初のコンセプトが「温故知新」だったのに、「敗北宣言」になっちゃいました。
私もいちおう「おんこちしんおんこちしん」を頭に叩き込んで創作したつもりなのですが、ぜんぜん貢献できずごめんなさいです。でもどんな「敗北宣言」なのか楽しみですね。

あと楽しみといえば、破滅派テーマソング!です。CDもあわせて発売。
きょうび、CDです。(という高橋氏のエントリーにウケたので引用させていただきました。)
Rocket or Chiritoriと「叙情系漫画家」今日マチ子氏のスーパーコラボ企画。



歌詞を大々的に募集、そしてオープニングはあのなにをやってもハイセンスなアサミ・ラムジフスキー氏によるもので、青井は(やっちゃった)とっても楽しみです。

個人的にも注目している、高橋氏の山梨におけるコミューン建設記事。



それと青井は(おいまた)竹之内温さんの小説ファンなので、今回も並んで掲載していただく光栄! 

色々リンクタグ満載でお届けしております、宣伝です。

でもそもそも破滅派ってなんなわけ? というそもそも派のあなた!どうしよう!

破滅派にとんでいただければ、まず幸いですが、コンテンツもりだくさん。そこで、またかよという批判覚悟で個人的に好きな記事をご紹介します。

破滅派放談「グッドバイにはまだ早い」

かくれ太宰ファン、なるものも存在する昨今、わかりますよ、太宰好きって言ったとたん「あれ」なかんじなわけでしょう。わかりますわかります。私は逃げも隠れもしないファンですが、酒飲みながら太宰について熱く語っちゃうこの放談、しかと読んでいただければ奥深さが伝わるかと。太宰読みの葛藤です。
ちなみに私が好きな太宰作品は!
「畜犬談」-私は犬に就いては自信がある。いつの日か、必ず喰いつかれるであろうという自信である。― 『きりぎりす』新潮文庫収録 
「饗応夫人」来客におびえつつ泣きながらもひたすらもてなす夫人のおはなし。『女生徒』角川文庫収録

「人間失格」の印象は強烈、あと作家性とか文体がとか、いろいろいろあるでしょう。しかしあの新鮮さ!ウェットなウィット!何度も裏切られ感をもちつつ結局ずっと好きは好き。

と!破滅派宣伝が太宰宣伝になりそうなのでやめますが、この放談での両先生のような引用応戦、記憶機能を修理しないと私は参戦できないなぁと思いつつ、とっても面白いので読んでみてください。後半にいけばいくほど、感涙です。破滅派のなんたるかもわかるかも。

破滅派はわかった、じゃあそもそも文学フリマってなんなわけ? という、そもそもラディカル派のあなた!どうしよう!

これ、現行の文フリ運営のなかでどう変質し、進展してるのか検証していないのですが、とりあえず、そもそも、こういうことではじまりました、というのが「不良債権としての『文学』」。
そもそも満足度を高める事ができれば幸いです。

さて、そもそもはこのくらいでいいだろう、破滅派7号、よろしくお願い申し上げます。

宣伝なのに、長い。

追記:コメントに書くとリンク張れないんですね。
   おんなじこと繰り返して限りなくあほっぽい。

この論文も面白いです。破滅派。
「「葉桜と魔笛」論」花藤義和
破滅派宣伝すると太宰を宣伝することになる。
ダブルスタンダードならぬ、ダブルオセオセ!

追記追記:今現在の文学フリマの理念はこちらです。
     あわせて提示したほうが良いかな、と思ったのでリンクをば。