「出産方面」: 1月 2011

2011年1月19日水曜日

恐山、いきたい

恐山に行きたいです。

夏が好きです。元気です。
じゃあ冬は嫌いなのかと言われると、そうじゃない。寒いの苦手だけど。
冬が嫌いだからって夏が好きという論理展開は「否定快楽原則」です。知りませんか?知りませんよね、4年位前に私がつけた名前ですから。そしてこの原則に負けない!負けたくない!と4年位前に名前をつけたそばから戦う決意をしたのでした。

「否定快楽原則」のスタンダードな文脈は「冬が嫌い、ゆえに夏が好き」です。これはいくらでも応用可能だし、ちょっと難しめの本もよくよく読んでみたらこの原則、制度イデオロギーも、ていうか選挙すらこれじゃぁねーの。できたら心太は食べたくないけどカキ氷よりましだから好きだったことにするとか、この季節ならほぼ我慢大会ですね。ただ人はっていうか私はこういう心理操作をして自分を欺こうとします。泣く泣く選ぶしかないからってあたかも好きだと暗示をかける。自己防衛としては有効かもしれません。そういえば松浦理英子『親指Pの修業時代』に、好きでもない人を好きと自己暗示かけるというビジネスを考え出した女性が確か登場したけれど、ビジネスを終了させたときにどうやって自己暗示を解くのだろう。と話がずれたので。

おいといて。
生きるってことはほぼ泣く泣く選ぶ事の積み重ねなわけなので、なるべく泣く泣く選ぶしかなかったことは、泣く泣く選んだのだ、と自覚しておきたい。
私というのは、防衛がどこか破綻した国家であり、ペンタゴンとかあってもグダグダなのでしょうか。常勤職員が衛星見はってるふりしてソリティアやってるみたいな勤務態度なのでしょうか。
自己暗示かけて自己防衛するということの必要性はある程度生きてるとわかってもいいもんだけど、別に清純だとか、そんなんじゃなく、そんな生ぬるい話ではなく、ただ、国防総省はグダグダでも理念だけはでかい国、なのかも知れません。国である限り清らかとかあるわけないだろうが。手は汚してますよ。背理もありますよ。存在しているだけで他から搾取してますよ。

でもね、清らかではないにしろ、嫌いなものを否定するため反転した好きを捏造することはできん!何故なら、「私はそんなものが嫌いだからこれが好き」という文脈で好きを躍起させると、好きなものを好きでいたいのか、嫌いなものに対する否定を強調したいために別のなにかを好きなのか、その境界が濁ってくるのです。好きなものはただ好きでいたい。そして好きでないものを泣く泣く選んでしまったのは状況が原因のときも自分自身が原因のときも、どっちもありうるというキツさを忘れないでいたい。好きじゃないものを否定したり見下したりするのではなく、なんで好きじゃないんかなぁ、と時々ぼんやり考えることの方が窮屈じゃないし、ごまかすために好きを使いたくない。故に、「否定快楽原則」否定!とアジテーションしたわけです、自分に対してね。

普段の三割り増しの回りくどい文章とちょっとした暗さからもお察しいただけるように、冬はいろいろと機能が低下します。特に現実社会に対応する面。仕事営業意欲などライフラインを左右する事柄から、ゴミ出しなどのルーティーンに至るまで。しかし読書や書き物などはそうでもない、そうでもない、と言い聞かせますが、本のセレクトが偏るので気をつけねばなりません。シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』は落ち込みました。夏に読むのと手触りがまったく違う、冬には危険だとわかっていても読み返してしまう、わかっていてもこうして話がずれていく。

恐山に行きたい。

いよいよやばいのかと思われるかも知れませんが、いや実際、寒いと体がしんどいんで切実なんですが、冬の空気はキリッとせざるを得ないかんじでいいし、お風呂入った瞬間の指先びりびり感もいい。生きてる間にあと何度このかんじを味わえるのかと思ったら、なるべくこのかんじを楽しみたい。だから恐山に行きたい。

以前青森に一人旅したのは二月で、三沢の寺山修司記念館と金木町の太宰治「斜陽館」に行き、合間の温泉宿を転々としました。寺山修司記念館は朝から閉館までいて、その間私以外に一人しか来館者がなく時間が止まったような、空気が止まったような。冬はバスも運行停止なので三沢からタクシーで行くしかなかったし。五所川原から乗った津軽鉄道でおばあちゃんから車内のストーブで焼いたスルメと日本酒をもらいました。五臓六腑にしみわたる、とはあの事だと、そしておばあちゃんの深い皺が忘れられません。ヴェルレーヌのあの一節が書いてある文学碑を見に行くため「だけ」に買ったホーキンスのスノーブーツでは太刀打ちできん積雪で、あげく文学碑自体が雪に埋もれて近づけないという。
そんなことしてて、恐山には行けなかったのです。真冬の恐山。通行止めなんじゃないの?と思うし、さすがにイタコもいないと思うけど、行きたい。そして心ゆくまで「寒いわ!」と言いたい。

ていうか「否定快楽原則」とか言葉捏造する以前に、どうにかして苦手な寒さを好きになってごまかそうとしてないか、という問いが、書き出してまもなく湧きました。

しかし、寒さは苦手でも冬は嫌いじゃない。
東北の雪の美しさは格別で、音を飲む。で小さく小さくはきだしていて、光って、きれい、なのです。

季節の美しさにはいつも手が届かないし、うつろうことのどうしようもなさはどうしようもできないけど、例えば変な磁石みたいなもので四季を操れるような強大な力を持っても、たぶん春も夏も秋も冬も、めぐらせてしまうのだと思う。寒さは強烈な暖かさも運んでくれますから。

2011年1月6日木曜日

さよなら、かんりきょういく

年末年始のさまざまなイベント時期に、ブログ更新できなかったのはもちろん私がリア充だからです。
この二三週間の美しき寝乱れぶりはツイッターのPOSTで簡単に露見しちゃうんだから、怖いな、ツイッターかわいいな。
ところで、いま軽く二三週間、と書いて、実際は確実に三週間経っている恐ろしさから目をそむけようとしましたよ。数字のこういう濁し方は任意であれ無意識であれ、巧妙です。

三週間、そう、この月曜日だの水曜日だの日曜日だのが三回来るシステムは時計台が都市に出来たからっつって人間が時間に支配されたうんぬんかんぬんくらい、考えたところでどうしようもないよね。でも週に一回くらいは考えちゃうけど。

で、年末年始のさまざまなイベント時期に2010年を振りかえったり、新年の抱負を書いたりせずになにやっていたのかと言えば、ライブ、映画、映画、ライブ、リア充満載です。ていうか、手帳見ないと何日にどこ行ったかわかんないくらい!うわっ書いてて自分でむかつく。実際はゴロゴロしたり飲んだり飲まれたり、で反省して年明けすぐトレーニングに移行しちゃう小心者ぶりがさらに腹立つんだけど、実際、生きてる間はなるべく身軽くしんどくないようにいたいんだよ。

ただ、映画、ライブ、映画、映画、って、基本的に人様の表現を消費しているわけですよね。素晴らしい消費資源が沢山、読書や展覧会含めたら、私の一年なんぞ表現消費ですから、振り返ったり抱負を述べたりするまでもないかもしれないです。

と、年明け一週すぎて始めてます、振り返りです。毎度の事ながら観念と感傷と言い訳だけかもしれないけれど、エントリータイトルの管理教育はまったく関係ないかもしれないけれど、驚くべき論理ねじ曲げでたどり着くのかもしれないけれど。

年末年始気分の底なし沼からどろっとした足を踏み出そうとしている皆様と共に、私もちゃちゃっと過ぎ去りし年度と来たりし年度に線をひく。鋏をいれとく。

2010年から11年にかけてざくっとイン・アウトしたこと。

①関係性のかたちなぞ、いくらでも変わってく。それがさみしかったりやるせなかったりする時、あえて「手を離す」選択をすることで、大事な気持ちを逆に守れる、っていうこと。私小説レベルに個人的なことなんでそう書けないけど、友達、とか、家族、とかいう言葉が結局私のテーマなのだった。 

②美に関する積年の疑問、「怖いものや醜いものに美しさを感じる」という感覚の反転した権力と、それでも対抗しなきゃなんない権力のありかについて。結局権力闘争そのものが無意味だと思い知った。私だって野に咲く花に美しさを感じる。でも悲しみや苦しみにも美しさを感じることがそれより高い感度なのだという視点じたい、馬鹿げてる。し、閉じてる。ひとの眼球とそこから脳につながる神経作用など、どうこうなどできないし、したって面白くもなんともない。そもそも経験だって違う。私はニーチェと同じく自分が経験しえなかったすべての経験に嫉妬するけれど、その嫉妬を楽しみたい。凝視ではない、想像力だけがその呪縛をといてくれるから、美の二分法など、それこそ「手離す」。そのうえで、美しいものはただ美しく純粋だとかいう退屈な話も手離して、飛んでみたら、めっちゃ楽しくなった。

③そう、楽しい。素晴らしい。そういうものが多すぎる。ここで所謂「新年の抱負」をビルトインする文脈に私自身が一番びびってますが、今年はね、楽しいもの、いいもの、ステキなものを、じゃんじゃん感じて伝達していきますよ。だって、それ楽しいんだもの。
そもそも、「破滅派7号」のアサミ・ラムジフスキー氏の短編、「グッバイ、ララバイ」がマジ面白かったんです。え、年はさんでまだ言っちゃうの?とか、同人が同人褒めまくってどうすんの?とかあるでしょう。わかってますから念のため年明けてもう一回読み直しましたが、寝転んで読んだって一行目から素晴らしいです。本当は年内にもう一回宣伝しまくりたかった素晴らしさを今やってるだけ。ご本人は音楽活動やあらたな展開されていて、ブログも面白いし、今更かもしれないけれど、いっぱしの読書家気取りでいる私をして、2010年かなりのヒット作品。もっと読まれるべき作品。買ってみて。私の作品ももれなく同じ雑誌にあるからじゃないよ、そうじゃないよ。むしろ恐縮で、私も精進しようと思ったのだから。

④こういう楽しさも、ネットを復活させ、ツイッターをがっつり楽しむようになって享受できた部分は大きい。「がっつり」とか「ガクブル」とかその他色々古かったり更新されたり揶揄される言葉にある力というかテンションを楽しんでいるので、それが下品とかいう話はもう無視しちゃう。まったく好みの問題で例えば「イマサラワロタ」とかはなんとなく感性が許さないから使わないだけです。下品と上品は美と醜に呼応するので、結局想像力です。べつに怒ってません。だいたい、前項の「読まれるべき作品」というのもツイッターにおける高橋源一郎氏の「読まれるべき詩」のパクリです。でもさぁ、この時代においてオリジナリティとかじゃないでしょ、剽窃で積み上げられているからって原典辿って何が面白いの?
とはいえ、もちろん原典を読む楽しさも満開ですよ。それはぜんぜん違う体験。

⑤素晴らしいものは素晴らしい。古典だろうとラノベだろうと。巨匠であろうと商業デザインであろうと。権威とお金が対立するとかドロドロであるとかいうつまらん議論をやめて、うろこばりばりの光ったものを涙のようにこぼしながら見てみる。そして感じた上で伝達する。もっとも幸福な手段が褒めることで、無論いいと思わないものを褒めることなどできません。でもいいと思わないものをわざわざゴーグルはめて探す人生など、嫌じゃ。

⑥結局言葉であって。愛してる、という言葉を発する自分を覗き込んでみるとそこには空洞しかなかった。だから、愛している、などと魍魎な言葉を乱用してはならないと痛感した若かりし日を経て、あえて愛していると言ってみたとき、本当に、真実、愛しているかどうかではなく、愛という言葉の真理ではなく、その言葉を発することによって起こる現象を愛しているのだと知った。・・・という、内田樹氏の本は沢山読んだのでどこからの引用かはっきりできませんし、誤読があるかもしれません。ただ、言葉の限界や不自由さを憂いて見せるのは、一瞬かっこいい、って思うときもあるけど、私はその言葉の無責任さ含め発してしまった共犯性、伝えてしまった故に担わなければならない罪、を背負うほうがかっこいいと思うのだった。

⑦ふわっ。まさかここまで来るとは思わなかったけれど、褒めるといえば元旦の事。土鍋買うため通過地点の八坂さんに成り行きで初詣しようかと、連れ合いと歩いてた時のこと。少し前を歩いていたおじさんが落とした手袋を、連れが小走りで拾って声かけたんだよね。人が落としたものを拾って届けるというの、色々数年体調とかしんどかったのに自然にできて、すごくいいところで。そういう要素が身近な人に沢山あるのね、と。人なんてわかりきれない。カテゴライズが想像力をしぼませるならきっぱり、反発する。年末会った友達もそうだけど、言葉で定義できない行為があるから、褒めたりなんやかんや、言葉はぐるっと本物になる。

⑧ふわわっ。限りなく予定調和的に見えるかもしれないけれどガチです。管理と教育ってすごい言葉を組み合わせたもんだなぁ、程度に思っていただけなのに、まぁ管理教育地域と認識される土地で生まれ育ったのでそれなりに思うところがないわけでもないけれど、適当につけたタイトルにねじ曲げて戻ってきた。このへんはさすがなので自分を褒めて面白い小説書こう。なぜなら、ステキだと思うことを褒めて、それがいかにステキかを伝えたい。伝える説得力を持つ意味でもいいもの書きたい。そんなことが目標であって、追い詰める教育、啓蒙、なんてさよならですよという話。ややこしくてすみません。いやべつに、ずっと前からさよならしてたのだけど。ゆとり教育とか難しい問題はあれだけど。ステキな事が沢山で、それは美醜の枠組みをさっと超える。

え、ていうか、これが振り返りと抱負ですか。
始まってるような終わってるような。ぐるぐる巡って繋がってるような。