「出産方面」: 2011

2011年11月7日月曜日

名前をつけようか、私は迷う。

ブログタイトルは今読んでいる、フランソワーズ・サガンの伝記的なもの、『サガンという生き方』山口路子 新人物文庫 (2010)から。

「ものうさと甘さがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名前をつけようか、私は迷う」

サガンの『悲しみよ こんにちは』の冒頭文章です。
なんとなく記憶があるけれど、サガンを読んだのは中学生くらいのことです。前述の文庫、そんなに分厚くもない小さな文庫だけれども、光の中でくるりと回し眺めると、カバー装丁にラメのような輝く何かが紙に混ざっていて、それだけで手にとってしまった本。本棚から『悲しみよ こんにちは』をさがしてみたけれど、見当たらない。
それくらい、過去の読書の朧気な記憶は、その後数々の移動と遍歴の中でどこかに紛れてしまったのかな。
正直サガンの事を思い出すのは、サルトルを思い出すついでみたいなものだったし、人生のなんやかやと対面してしまうと、よく云われるサガン批評として「ブルジョアジーの描く恋愛と人生文学」みたいな気もしていました。13歳くらいの頃の、甘いもの好きな過去、となってしまっていたことも事実。
ミスドのドーナツを丸ごと一個はもう食べられないよみたいな。
ていうか自分もともと甘いもの苦手だったよねとか。

なので、タイトルも引用も孫引きです。

でもやっぱり、細胞のどこかでは時々甘く、それでいて辛辣なものを求めているのかも知れません。

小説を2007年から書き始め、正味二三年しか集中出来なかったけれど、最近いよいよ面白くなってきたのです。ネガもポジも両サイドの意味で引き裂かれる心というのを自由に泳がせて着地させる、その大地が白い画面、あるいは白い紙の上にあるということを、功名心でも自己実現でもなく感じるようになるとは、正直始めた頃には思っていなかったので。

などと、こんな吐露はどうでもいい話。何でもいいから何かをしたいのではなく、これをするのが最もなのだという最もぶりは結局のところ、「これ」をする行為だけでしかないのであって。

なわけで、「これ」をした発表媒体としての破滅派八号を宣伝いたしますよ!


青井橘「緒の国」
断絶しながら繋がる小さな島々。一つの島を統べる者は選ばれた人間だった。彼らもまた絶たれながら結び合おうとしているのか。分裂した場所に浮かぶ人間の孤独と共存。

その他の内容のご案内はこちら

文学フリマは11月3日、すでに終わっているので後追い宣伝です。もうほんとにね、何をやっても遅い私です。生きてます。
毎回騒いでいるように、文学フリマはお祭りでもあって、こういうことの好きな、沢山の人達が来場する、そんな場があること自体楽しい事なんだけれども。

そこそこ売っていきたい雑誌としては、ガチで宣伝したします。各書店販売もしておりますが、とりあえず、こちらの販売ポータルサイトをご案内します。

今なら送料無料とかのウワサを聞きました!

2011年9月3日土曜日

電書で残暑

こんにちは! 台風です。残暑です。電書です。
破滅派から電子書籍「ロマネスク」が発売されました。





私の新作は「スワン・ソング」です。是非ご高覧のほどを。

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破滅派のお知らせページはこちら

各種SNSを使っている私ですが、ブログでも宣伝。
TwitterのRTが他にも反映されると便利なのですが、というのは別の話。

取り急ぎ宣伝です! 宜しくお願いします。

2011年8月24日水曜日

夏の骨

骨盤というのは、むろん骨です。
最近なんやか広告で「骨盤ダイエットでマイナス18キロ」とか見かけますが、何ダイエットにせよ20キロもの肉なり脂肪なりが身体からなくなるって、どんな感覚なのでしょうね。いったい骨盤をどうすればそんなことになるのか詳しく見てないですが、どちらにせよ新たな身体に慣れるまでの違和感、それは想像に難く、体験してみたいとも思います。
しかし今の私から18キロも減らしたら、貧乳はともかく、肋骨でいろんなモノが洗えてしまいそうですので、憧れの豊満さを入手してから手放すことは考えようかと。手に入れたいと欲したり手放したいと望んだり、まったくワガママなことです。

しかし身体とは何であるか。頭とか脳みそとか心とかが各自ひとつしか持てないということと同じくらい、生き物に各自ひとつしかボディがないということについて、疑問と感慨が同時多発してしまいます。『マルコビッチの穴』とパーマンのコピーロボットの事を考えて、時折同じ姿勢で二時間くらい座ってることがあるのですが、そんなんだから骨盤が歪む。

プロテインでふくらませ筋肉プロテクターを強化しても、黄色い脂肪を食事制限で減らしても、骨は骨。そして骨盤は骨。骨は硬い。しかし骨盤が歪むとかいうのんは、骨盤という名称でくくられた沢山の小さい骨の集合体がどうにかなるわけではなく、周囲の筋肉が硬くなったり伸びたり縮んだりしているんだよと、中医の先生に教えてもらいました。

実は三年くらい前から肩甲骨に言い知れぬ痛みが走るようになり、慢性化しそうな気配だったのですが、去年の夏はマックスひどかったです。左側の肩甲骨から始まって首、背中が、こう、ピキッと。最終的には左足まで電気が走るようになり、やばい、これでは右側人間になってしまうと思ったのか思わなかったのか。仕事がたて込んでいて、仕事なのだからそれはなんらかの職業病的症状が出るのは覚悟してました。どんな仕事でも、反復と継続の条件が揃ってしまうと色んな症状が出てきますよね。
一日13時間立ち仕事をしていた頃には、足のむくみとはんぱない生理痛。
いきなり実務に使わないといけなくなった建築CADソフトと毎日8時間向き合っていたときには、眼性疲労と頭痛。あと建物をみると自動的に平面図と立面図と展開図が頭の中でくるくる回るという幻覚に襲われてもいました。
ひたすら調査&文書作成していた時期は、目の中で、文字が虫のごとく這い回っていたし。
肉体労働もデスクワークも、身体にとっては過酷です。家事労働も含めると、人って身体を使てなにかをし、疲労し、蓄積し、やがて痛みや重みとなり、使っていた身体に心を使われる。

と書くとペシミスティックですし、別に身体二元論をとっているわけではないのですが、身体が痛い時って、身体がすっごい勢いでなんか喋ってくる、説教してくる、懇願してくる、脅迫してくる、とは感じます。
去年の夏は、一日中誰かが耳元で「オレ身体っす、痛いっす、やばいっす」とささやいてるようなものでした。フライパン持つたび左腕がもげるかという痛み以上に、そんな声がきこえてしまうと、別の意味でタイヘンな事になる。

色々身体を使っているうち、根本的な問題は骨盤の歪みから来てるのだと思ったわけです。だってあなた、私のハイヒールってば基本が10センチ高だし、仕事のことは細かく言いませんが、文章書いてる時の姿勢の悪さ、なにか文句あるんですかくらい組む足、これで歪んでなかったら、私の身体はゴムかガムか。

そんなわけで去年の夏の苦痛は、ヨーガに加え、鍼灸、中医を取り入れて乗り切りました。
で、今年。睡眠の質が良くなったからか、ストレッチの内容を改善したからか、だいぶ楽になったけれど、やっぱりちょっと痛い。時々けっこう痛い。
去年のアレに舞い戻らないように、針はちょこちょこ行っていたのだけれど、東ばかり見てないで西もどうだと整形外科に行ってきましたよ。

注:イメージです。©入ってます。

私ハタチ頃にめちゃくちゃな事故にあっているのですが、事故の記憶が曖昧でどんだけのキカイに写真取られたか覚えてません。とりあえず骨は問題なかったのだけれど、今でも左足には15センチ程の裂傷痕があります。だから左側が痛くなるのだ、左足の骨は折れなかったけど縮んでるとか、背骨なり腰椎なり頚椎なり、左側が歪んでいて、その歪みが肩甲骨や骨盤を引っ張っているのだとかいう物語が、整形外科の待合室のツルッとした茶色いソファに座る頃には、プロットまで構成されていましたよ。
で、意識不明ではない状態で、バッチリあらゆるところのレントゲンをとられました。さぁこれでわかるやろ、どこがどのように歪んでいるのかが!左側の秘密が!
と期待してたのですが、めちゃくちゃまっすぐです、とお医者さん談。旦那を待合室で二時間待たせた挙句に。
でもまっすぐすぎて、逆に首とか痛めやすいらしいです。まったく骨というのも、メンドクサイ人ですね。
あと「骨盤の歪み」というのは、整形外科ではわからないということがわかりました。先の中医の先生が言うように、多くは骨の問題じゃないってことなんでしょうね。

できたらこんな骨に生まれてきたかった。

猫の骨 注:イメージですって。中国のサイトで販売してました。

なんか骨少なくない?そもそも骨盤というものじたいも人間ほど複雑じゃなさそうで、歪むもなにもなさそうで、うらやましいな。

しかしこっからやり直そうというのは、母の胎内から出てしまった以上、無理な話。
人間はゴムでもガムでもないのだという現実をうけいれて、あ、こっちのお尻硬くなってる、とかいうのんを、身体と心にお問い合わせする毎日です。

2011年7月19日火曜日

インアウト、東京から東京へ。

毎回毎回びびると言うのも芸がないけれど、またもやひと月、気がつけば七月も後半。びびってます。
誰に謝るべきなのかわからないけれど、とりあえずごめんなさい。

先日調べ物してたら「アクセスの伸びるブログの書き方」みたいなサイトにたまたまぶち当たったのですが、更新遅いのと内容が散漫なのはもう論外みたいですね。べつにそんなこと知りたくなかったのですし、もちろん気にしませんが。
このブログはネットの海を漂う手作りの筏、そう、椰子の実と蟹を食べてしのいでいた無人島から、ちょっと海原へ出てみようかしらと、流木を集めて南洋植物の繊維で編んだロープで作ったすかすかの筏。
波に流されてどこかに辿り着くか、それはまた別の無人島なのか、先史以降発見されなかった新しい原住民、という語義矛盾した存在の暮らす未知の島なのか、いやはやどこにも流れつくことなく、ただ海を漂ううちに揺れているのは海なのか自分なのかわからなくなって干からび朽ちるのか。そんなことは知りませんが、とにかくこういう長ったらしい文章が駄目らしいです。はいはいわかりました。

まぁ実際、本来は小説の内容に反映さすべき事を書きすぎ、という具体的指摘は謙虚かつ真摯に受けていますが。

6月末の暑さからなし崩しのひと月、何やってたか何から書いたらいいのかわからないので、とりあえず前回更新の直後のそう、文学フリマ、6月12日。

前回は行けなかったくせにアレほどTLで騒いでたわけで、今回は行ったがゆえのスルー、はないですもちろん。
だってとっても楽しかったんだもん。会いたかった人に会えたとか、思わぬ出会いがあったとか、イベント自体の面白さとか、入手した本の面白さとかほんとに色々あるけれど、とりあえず、破滅派は面白い。誰がどう何がどう、そういうことが知りたい人は破滅派その他、読むべきもの触れるべきものが沢山です。早くしないとこの世界から紙も文字もなくなっちゃうかもよ。いやそれより、人生という時間ですね。紙と文字の上を流れる時の長さと比べたら、人生はあまりにも、短い。

ブースの内側にスイカと紙幣が見え隠れ。他ブース回ったりビール飲んだりしてたので、これしか写真とってないけど活気がありました。みんな製本もクオリティ高いし、特に今回、上手いだけじゃなく伝わってくるものがたくさんあるイラストレーションを描ける人間がこれほどいるのだという現実に改めて感心しました。何が商業ベースなのかオルタナティブなのかインディペンデントなのか。

でいきなり、今月、ていうかこの三連休です。
旦那のバンドVAMPIRE!、高円寺のUFOクラブで予定していたライブが、あの、3月11日の翌日だったわけで延期。今月17日にやっと振り替えでした。関東方面までどうせ交通費かかるなら勿体無いから小田原で降りて湯河原へ、温泉に行っちゃって飲み過ぎちゃって、でも二日酔いなどさらっと通りすぎて、ハイセンスな物を書き音源もつくっちゃう、ハイセンス過ぎて嫉妬もしない方と夕方明るいうちから焼酎飲んでましたけどね。

そのハイセンス氏とライブハウスへ。身内贔屓にもほどがありますが、バンパ、かっこ良かった。日常を共に暮らす人間がステージで非日常を表現してくれるというの、楽しいんですよね。ギター持ってない時のあの人が普段どれほど(いやこれ以上は言うまい)。

ライブ後もまた飲みに行って、7月17日は京都では祇園祭、私は海ぶどうを一日2回食べるはめになったという稀有な日であったことはまだあまり知られていません。15日に友達の誕生日を祝って以降、財布の紐がユルユルで人に奢りまくり、饗しまくる『饗応夫人』のようになっていましたが、決して泣いたり怯えたりなどしていない事も付け加えておこう。人を饗し破滅するものまた私らしいのであります。おはめつ。

翌日18日は浅草に行って。

ビニール袋で守られた子供。


金色のアレとスカイツリー。

浅草の純喫茶のステンド。

東京に仕事で行ってた頃は、だいたい建材や家具の展示会とか見本市とか建築関係のシンポだったり、時々人ごみで倒れたりで、苦手意識があったけど、6月7月の再訪のおかげで、東京が楽しくなった。目的があったり用事があったりというのもそうだけど、土地、場所、人、変わらないことと変わることがある。変化に付き合っていくこと、変化を楽しみ愛すること。それが私とあなたと世界との和解。きっとこれからも、苦手だった場所を愛したり、すれ違った誰かに再会することもあるのでしょう。

孤独な筏の上から見える海原には、沢山の、形の違う船や筏が、揺れながら漂っていますから。

2011年6月10日金曜日

さよならせずに手放しても。

ネットに漂っているテキストの事です。

ふわふわと漂っているものを持ち歩いて生活するのは不便です。
綿あめだったらべとつくし、タンポポの綿毛だったら風で消える。
ずっと持っていないと飛んでいってしまうし、かといって実用的じゃないし。
宙に浮いた赤い風船を持ったまま電車に乗るのはけっこう面倒なんですよ。
邪魔だし、周囲にはいいトシこいて風船かよって顔で見られるし。
それでもなんだか、手放せない。そういうガラクタが沢山あるわけだけれど。
それがいかに宝物かなんて、大声で言うのは恥知らずなことでしょう。

具体的には、このブログのサイドに恥ずかしげに貼ってある、大学時代の日記、のことなんですけど。

まだウェブログ、というのがそんなに一般的じゃなかった頃、2002年の大学入学年に始めたものなんですが、6月いっぱいでサイト停止するんですよね。

かなり恥ずかしいと思っているのに貼っている自分が時々信じられないくらいだったので、そういう「サイトの都合」みたいな事情でリンク出来なくなるのは受動的で気が楽です。

ネットという媒体に個人的日記を載せるのに迷いつつ、でも今みたいに私の名前検索したらヒットするなんていう状況でもなかったので、友人や読んでほしい人へのメールにアドレス添付する、としてました。このブログを作成するとき、そういえばネットの海に漂ってるのがあるなぁと思って貼っていたのですが、訪問履歴とか消えていたけどそんなに気にならなかったです。

こういうの、沢山の人が持ってると思うんですよね。日記サイトやってた人も沢山いただろうし、今様々あるブログも閉じたり新たに開設したりして、個人的な履歴を色々持ってる人が沢山。そういうのってみんなどうしてるのかな。

ていうか、日記とか日記のようなものって、どうしてるんだろう、みんな。
私は捨てられないんですよね。
中学生くらいから日記を書いていて、さすがにそれは今手元にないけれど、大学ノートに書いていた高校生の頃のものも、手書きの大学時代のものも、読もうと思えば今すぐ読める場所に保管してあります。

過去、自分がいかに「その時」を捏造しようとしていたのか今見直したいなと思うことがあります。
「本当のこと」なんて、日記にすら書けないのだから。
本来的な意味で言うなら、過去の履歴とは三年前の3月15日の天気はどうだったか、自分は何を食べたとか誰と会ったとか何時に寝たとか、事実の羅列の事だと思います。けれど私は主観で塩漬けしてから書き始める人間だし、感傷の砂糖にまぶしてから転がしちゃうわけです。つまりそれは嘘なんだけれど、精一杯嘘をついて「その時」を過ごそうとした中に、後になって見るとちょびっとだけ「本当のこと」に色形が似ているものがある。
私、それを見返して、今の自分が今まで生きてこれたからって信じ込もうとしているセオリーにツッコミを入れたいんです。
私は私を正当化したい。だから今を正当化したい。けれど正しいかどうかなんてことは他者との間において相対的なものでしかなく、今の私を過去の私という他者が批判することもあるわけです。というか批判せざるをえない。そうしなければ。

「汚れた大人」になってしまうんだぜ!!

私はできるだけ大人であろうとしています。というか今でも本当にガキなのでなんとかしたい。
でもそれは諦めることでも汚れることでもない。
素直なまま、大人になりたい。素直、とは、嘘を嘘として、きちんと弄べることです。弄ぶとは大切にするということです。

サイトが消えてしまう前に、ほんの少しだけ、その大切なものについて記しておこうと思います。

大学に入ったとき、講義をうけて何度も泣きそうになりました。いや、実際に泣いたこともなります。それは別に、レヴィナスの他者論に感動したとか、西田の絶対無に煽られたとかではなく。
泣きながら友達に電話をしました。
「なぁすごいで、世の中にはこういう場所があんねん! なんで生きてるのとか世界はなんなんとかいうことを真剣に考えて、考えてる事言っても怒られない、そういうとこがあんねんて。すごいすごい、わたし、感動した! すごい嬉しい! 考えてもいいし、考えてるって言っても良かったんや!」

別にこれは揶揄でもなんでもなく、とってもとっても嬉しかった。

それからもう一つ。
大学に入る以前から私には心のなかで勝手に尊敬している人が何人かいましたし、その人達は今でも尊敬しています。でも尊敬とか憧れとかって、口には出せない。何故かといえば私が尊敬する人は過去の偉人ではなく今現在生きている人だから。今生きていて、変化し、これからも生きていくであろう人を一方的に尊敬するのは、私の幻想であなたを規定しました、という告白です。実際私はその人達を規定しているのだろうけれど、それを言うのはなんだか相手に申し訳ない。だってその人達はこれからも沢山変化していくだろうし、その時迷ったり立ち止まったりもする、ある一人の人間だから。私はその人をわかりきることなどない。ただ変化し、移ろっていくことそれ自体を尊敬できる、たとえ私とは意見の異なる選択をしたとしても、敬意を払えるということ、それが私の尊敬の念です。だから私は片想いの恋のように、そっと尊敬の気持ちを胸に秘め、自分が迷ったとき、こういう時あの人ならどうするかな、と勝手に想像する訳です。そんな身勝手を相手に告白し、共有を強制はできないし、そんなふうに尊敬する人を規定したくないんです。

そんな関係、これからも尊敬し続けることのできる友人に出会えたということ。
そのうちの一人。
「わたくしが死ぬまでお前も生きろ。そうすればお前が死ぬまでわたくしも生きるであろう」
こう言い放った友人との権力相互行使的関係を保ちつつ、精神的心中をしないため、生きていかねば。

言葉の完全性を追求して口を閉ざし、相手を幻想の中に留めるのではない。
私は誤解しかされず、私も誤解しかできない。共同の夢を見ることは出来ない。
私には私の、あなたにはあなたの夢しか見られないということを確認するために会話をする。
それは夢ではなく現実です。ここで繋がるとはそういうことなのかもしれない。
夢の中に生きているのにわざわざ夢を見つめようとするのではなく、今眼の前にあるこの世界が全てだということ。

この空が、この風が、この草木が、唯一の夢であり現実で、それを語るには取りこぼすものがありすぎるがゆえ、私たちはこれからも会話をするのであろう。
こういう会話をしたという記憶の記録という、事実の羅列ではない、なにか日記のようなもの。それがあれでした。

大学を卒業する直前、2007年に小説を初めて書いてみてから最近まで悩んでいたことがあります。
私は私の主観性を批判し、それでも主観を手放さず「わたし」を主語にしながら、さらには客観性をもたなければならない、ということです。沢山揺らいでましたし、今も揺らいでいるのだけれど、そのなにか、日記のようなものが消えるにあたって読み返してみて、ちょびっと気がつけたというわけです。

大学に行ったことは学歴はもちろん、仕事とかそういった面ではほとんど役に立っていません。でも大切な時間でした。
サイトが消えたら、私はもう、その大切なモノを大切だと看板さげとく呪縛から逃れられ、そっと心の中におりたたんでおけるということが、ちょっぴりさみしく、そして嬉しいです。

2011年5月21日土曜日

イミテーション・ビューティー

ああもうびっくりした。気がついたら五月も半ばを過ぎているじゃないですか。
仕事したり小説新しいのに手を出したり友達と遊んだり旦那と遊んだり、ぐたっとしているうちにこれですよ。

ブログに引越しうんちゃらの事書くと言ってから随分時間が経ってしまいましたが、頭の中でこねくり回しすぎて引越し小説が書けそうなので、ブログの方ではもうちょっと別ネタで。
まぁ引越し作業完全終了して、人様をお招き出来る状態になったので、お友達も来てくれて結局飲んでるみたいな日々なんですが、以前旦那の物量にうんざりして八つ当たり(いや正当だよ)して怯えさせて、ミュージシャンの持ち物を断捨離させてきました。なので大分ましだったのだけど、私、今回は自分のモノの多さに一度心がボキボキに折れて、半裸でベッドに横たわりシクシクしちゃいましたよ。
収納とか整理整頓は得意なんです。だから普段はそう見えないんだけど、引越しってそういう目をそらしてきた事実が、白日のもとにさらされるじゃないですか。
しかしエロい格好でシクシクしたって、古本や古着が「自分ここに収まっときますねー」「あ、じゃわたしはこちらで」とか言って、ものすごいチームワーク発揮してくれるわけもなく。涙を拭いて立ち上がり、片付けましたよ。片付けまくりました。

部屋の構成とか配置とかインテリアに関しては私に一任されています。「空間把握能力高いよね!」と以前から旦那に褒められているのですが、ていうかインテリアデザインは本業だったし。でも褒められて伸びるタイプなんで、機嫌よくなります。だいたい超理系の旦那に「観念!」とか「情緒!」とか「諸行無常!」とかいうゴリ押しの理論(理論以前)以外で上に立てるのは気分がよろしい。化学記号の話とかはスルーです。日本語も英語もワカリマセンていう顔します。

さて、私の舵取りで片付け、間接照明その他を配置できる状態になって、改めて、心底、気がついたのですが。

私、なんでこんなに造花沢山もってるの?







家のいたるところが造花(主に薔薇)で飾り立てられていくにつれ、こんな美輪明宏的、ウテナ的空間に、ロックオヤジは耐えてこられたのかと。しかしそこは「全然平気(ニコッ)」で解決。

そうなると新たな疑問。私は何故こんなに造花が好きなのか?という疑問が湧いてきてですね。
そもそも造花ってなんやねん、ていうことで調べちゃったりして。こういう事してるから時間が……。人生という砂時計が。

まず最初に見たかった本が、東京造花工業協同組合『明治百年と造花の歩み』(1968年) というものなのですが、これが古書扱いだわ図書館にはないわコレクター価格だわで。これ買うなら100均で薔薇の造花を200本買います。でも読みたいのでなんとか探す。最終国会図書館に行く。

で次に手にとったのが1926年創業の大西造花装飾株式会社という会社の社史 『花のあしあと 大西造花四十五年史』(1970)。これがなかなかナイスでして。創業者(たしか)のステキアングルな写真からはじまり、創業太閤記や戦前戦後の造花事情、「ホンコンフラワー」のCMアーカイブなど、画像資料もふんだんでした。中でも昭和39年に朝日テレビ「女性専科」で社長が野際陽子と造花について対談していた!とか観たいですよ、映像残ってないかな。

あとすごかったのが『新造花術』渡辺玉潤著 文港堂 (明治42)
著者の名前すら読めず戸惑いましたが「ぎょくじゅん」さんです。
一、造花の女子に趣味あり且高尚なる技術なることは今更述ぶるを要せず、、、、
という冒頭の例文から迫力満点でさらにたじろぎました。でもめげずにページをそろそろめくっていくと、花の挿絵が満載で、ようするに、素晴らしい造花を作りたいなら花をがっつり観察しなきゃいけないけど、精密な挿絵も載せといたから参考にしてね、何なら型紙使ってがんばって作ってね、みたいな事でした。

あとは、どうやら飯田深雪さんという人がその世界では著名なようで、造花教室やってたりアートフラワーアレンジメントなんかを紹介している本もいくつかありましたね。なんかお医者さんのお嬢さんで外交官と結婚して絵画をたしなんだそうです。文字通り絵に書いたようなサロン文化としての側面を見せつけられました。ぶっちゃけ震えます。
で、この方が書いたこれまた造花の作り方や型紙がふんだんの『造花ーその技術と応用』婦人画報社(昭和33年)という本。
「野に咲く美しい花を見て、誰がつんで自分の身にさしたいと思わない婦人があるでしょうか。花を飾ることは優しい婦人の本能として、神が与えた習性でしょう。」(p12)
とか、
「花の多い家に生まれた私は、花は柔らかい雰囲気をもつ美しいものなのに、なぜ造花はあのようにカサカサして、色も味わいがないのかしらと子供心に残念に思っていました。どうにかして私のこころにある花を表現してみたいと、ひとりで布地を縫いちぢめては本当の花の感じを出したりして楽しんでいました。それが何年か後にヨーロッパ人のパーティーに着てゆくドレスにも楽しくつけて行けるようになるまで自然に成長して、私が二十八歳の頃英国貴族(当時の印度大総督)の大正餐に招待された時に、フランス製の黒い夜会服に極く薄いピンクと白の手製のばらを、肩から腰までつけて出席しましたら、その日のホステスの公爵夫人から非常に褒められました。」(まえがき)
とか、とっても腹立つ優雅な文章が散見され、またもや震えが止まりませんでした。
神って…。しかも造花の考案は「夢に現れる不思議な啓示によって作られた」そうで、電波系エレガントな文化のあり様に、マジで指先震えました。

さて、もうすでに充分ずれてますが、これ以上話が脱線してく前にぎりぎりの線で本題に戻します。もう崖っぷちですが、ここまで読んでくださった方には感謝と敬意を表しつつ、要するに造花とは。

「一般的造花は自然の花がすぐにしぼんで長期の装飾用にならないのでこれに似せて人造の草木の花や葉をつくったもので、宮中や殿中の宝飾、神仏の祭事、民間の婚礼、祭礼などにさし花や飾花として古くから用いられていた。文化年(1804―1818)には、宮中の御用造花師がいたことがわかっている。民間用の造花師で、婚礼用造花専門家もいたようだ。明治時代に入って江戸風の造花は蓬莱(ほうらい)や高砂(たかさご)の台に飾られた。」(IBPC大阪ネットワークセンターによる、国内マーケットにおける造花についてのざくっとしたまとめより)ということです。

ホンコンフラワーは名前通り香港で作られ、60年代に日本でも沢山輸入されていたようですが、それ以前から「作り物の偽物の花」はあったということです。

で、ですね。
でも、ですよ。
私が造花を好きなのは結局、「偽物だから」という、もう、ほんましょうもない理由だったということを、こうやって資料さぐりつつ実感してるわけで、もうこれ、ほんと身も蓋もない理由ですが、真実なんです。

宝石でもなんでも、イミテーションってステキなんですよ。本物ではないけれど、そのもの自身ではある。誰がそれを否定できようか。それオマエがお金無いからだろとかいう無粋なツッコミをする前に、私たちの身の回りにある数々の偽物をもう一度、ご覧になってください。造花しかり、コスチュームジュエリーしかり、ていうか私食品サンプルすら愛してますから。

偽物のけなげさ。
偽物だけが持つ、美しさと儚さ。
偽物は偽物という本物なのです。

自然の花より長く生きるかもしれないけれど、造花だってやがては朽ちていきます。だって物質だから。
私の家を飾ってくれる偽物の薔薇、古いものから散りかけていこうとしています。それは造花の構造が理由でもあるのだけれど、花びらが散っていくのと同じように、だんだんと色あせ、花弁を開ききってしまおうとしています。

アンティークとか骨董とかに付随した価値を感じない私は、むしろ、こんなふうに名もなく大量生産されたものが最後まで名前をつけられず失われていく事に、感動と感傷を持ちます。私の持ち物は、インテリアも服も装飾品も60年代から70年代のものが殆どですが、10年以上好みが変わっていないです。ヴィンテージとかじゃなく、量産品でチープで、でも一つ一つはやはりただそれだけの、たったひとつのものだという感じ、これが大好きなんですよ。

はい。自分の長文に自分で目がくらんできましたが、もうちょっとだけ。

鉢植えのハーブほど雑草感のない、生花に区切られた時の短さは残酷すぎて、切り花より道端に咲いてる花の方が好きだけど、めぐり合った生花との短い時間を、時々は共有してみたりもしていますよ。


2011年4月26日火曜日

桜散って、ちりぬるを。

花なんか好きに決まってます。

「ぽかんと花を眺めながら、
人間も、本当によいところがある、と思つた。
花の美しさを見つけたのは人間だし、
花を愛するのも人間だもの。」

太宰(はいまたきた)『女生徒』の名文ですね。ファヴォライトな方も多いのではないでしょうか。そうですよ、太宰ったらこんなセンチメンタル野郎なのです。はた迷惑なセンチメンタルなど、と揶揄ってもいいですが、他人の情緒や感傷を迷惑がるなんて狭い心は畳んでしまって、うんそうだよね!と微笑んでおきたいものです。

それにしてもこの文章を読むたびに、よいところがあるのは花なのか、人間か、人間なのか?と小一時間考え込んでしまう私ですが、人間も、本当によいところがある、と結局は信じているようです。
ではそれは、例のコマーシャルのような、お日様照り照りの博愛主義なのか? いやそうじゃない。そうじゃないよ。
しかしこの手の話は長い廻りくどいの王道、王の道の門、あるいは阿片窟の入り口のようなものなので、回避しましょう。
私だってね、学習能力くらいあるのですよ!

そんなわけで、散ってしまった桜の写真。
桜は散っても、私のブログという狭い世界の中では、咲き続けるのだ。
WEBというシステムが続く限り。
限りはあるけど、続く限り。


疎水に水を放流する音が、住まいから毎日聞こえていて、水面に垂れ下がる桜。絵になる。なりすぎる。


水門。けっこうな勢いなのですが、通るたびに足を止めてしまうのは、なにか、危険な兆しでしょうか。


葉っぱや紙でお船を作ってね、流してもね、追いつけないですね、きっとね。


水の貯めてある脇にあるレンガの藤棚。多分藤棚だと思うけれど、ここでの季節はまだ、はじまったばかりです。
ガジュマルによくある「絞め殺し」の枝ぶりがレンガと合っていて素敵。夜の散歩の一息スポット。というか家から二分とかからない場所で一息ついちゃう私たちってば。


ところ変わって高瀬川。なんか伏見の方から届く米俵とか酒樽とかが船に乗ってます。酔っ払ってたら跳び移ってしまいそう。ここも散歩圏内ですが、ほろ酔い危険地域ですね。

花は美しい。無条件に。そして何も言わない。文句も愚痴も、自尊心を傷つけるようなことも。
だから穏やかにながめてりゃいいんでしょうが、私、先日もツイッターで書いたように、桜は怖いのです。
文学的、情緒的、思い出的、記憶的、虚言的、に。あらゆる要素が重なっているのもあるけれど、そんなことよりね。
桜って、決して無言ではないんだもの。
植物がしゃべらないなんて、人間の世界のファンタジーなのですよ。

桜が怖いのは、囁きが折り重なって、小さな小さな無数の声がどこまでも続いているから。
咲き誇る僅かな時間に呟いている。小さな声が私の耳に目に鼻に口に、入ってくる入ってくる。
そんな濃い囁きに囲まれたら、息を押し殺して、うつむいて歩くしかないじゃないですか。
夜はずっと親密に、用心深く、けれど大胆な内容のひそひそ話をしているし。
夜桜の下で、私は赤面です。

桜の儚さと、かしましさ、大胆さには、毎年参ってしまうのでした。

けれど今年の桜たちの囁きは、いつもより、無邪気で優しかった。
そんな気がしています。
また来年ね。

2011年4月4日月曜日

はじめましてふるさと。

3月に更新できたのが一回で、しかもあのタイミングだけだったということは、いたしかたないし、しかたない。

しかし私は昨年の夏から冬にかけて、ちょっとした教訓をこの貧乳に刻みつけたのであって、そのひとつが「しかたない」のはしかたないじゃんっていうのは、しかたないからやめようよ、ということなのでした。

起きてしまった物事に対し、しかたないしかたない、言うのはほんとしかたない。

この先をなんも変えられへんくてまたしかたないを言うハメになる。
同じことを繰り返すのも人の子、習慣になれば日々もまた楽し、ですがね。

今はもうそんなのんべんだらりとした事を言っていられる場合じゃないのは、なにも、震災のせいだけじゃない。
もうみんな、だいぶ前から、いろんなこと感じてたし、うすうすわかってたはず。

とまあ私は自分が生きてく中でつかんだ教訓のようなものを是が非でも他者に共有してもらわなければ息もできないほどの、運動家でもマッチョイストでもないのですし、「しかたないをやめる」と同時にやってきた御言葉は「覚悟」だったのでした。

覚悟っつっても、そもそもの神経質に摩擦をかけて黒板爪でひっかいて、不快音が逆に快感みたいな倒錯行為をするのがどんな結果をもたらすのかは火を見るより明らかなので、ハチマキ巻いて飛行機乗るといかいう覚悟ではなくむしろ逆。

追い詰めて追い詰めて生きたところで、生は生。

そのどうしようもなさを嘆かないという覚悟だし、選んだハッピーがさらなるハッピーをもたらす事を求めるのではなく、ハッピーは作れる可愛いは作れるみたいな(なんか聞いたことあるけど、なんのCMですか)とか、ハッピーだけを見てるなんて無理、人間いろんなものをいろんな穴から流してそれでも一緒にいられるかっていうことだよねと幾原さんがツィートしててそんなんもうほんま随分前から身にしみてるよ、とか、あまりにプライベートなことなのでちょっと今日は書かないけど、そんなことよりこの文章なんとかならんかというのを、引っ越してしかも私の荷物はこれから引っ越すというのに、つないだノートパソコンがまだ連れ合いの本の詰まった段ボールに乗ってるせいにしていいですか、だめですか。

だめそうなので、写真に頼ります。甘えさせてね日光写真。うそぴょん、ただの写メですよ。

私は梅の花が好きなのです。桜については色々思うところがあるのですが、梅は単純に強い。空に負けない。けれど今年はわやわやのうちに梅をじっと睨む間もなかったですよ。一瞬の隙をついて空をあおいで撮ったのだ。一瞬て。なんだこのイミフな多忙パフォ。

でも今年の桜はかなり待ってた感があるので、うれしいけれど、まだちらほら咲きです。新居は鴨川にも疎水にも近く、水と桜に囲まれていますので、これからも心地良い風景をお届けできれば、と思います。とりあえずは近所の柳。

この大きな柳のそばを通ると、なんかふっとします。大きいから柳の垂れてる葉も長くて、なんつうか、時間が、一時間が一分が一秒が、いつもより長く感じる。そして風にそよぐと時もそよぐ。時という直線的なものが軟体になっている不思議を味わえるので、私はこの場所を通るのが好き。

メトロというクラブが近くにあって、京都に移り住んで間もない頃、ぼわんとした耳で朝焼けを見たのもこの柳の下だった。あの頃京都はまだ旅先だったのに、いつの間にか私の故郷のひとつになった。私はこの新しい故郷で、連れ合いと天気のいい日、サンドイッチを作って食べるつもり。柳の下で、下戸の連れ合いをさしおいて、暖かい休日の昼間に、昼間から、白ワインを飲むつもり。

はじめましての、ふるさとで。
私はワインを飲むつもり。

世界中の場所は、どこもかしこも、みんな誰かのふるさとなんだ。

2011年3月24日木曜日

二週間経ったら。

明日で二週間になります。
被災された皆様には心よりお見舞い申し上げます。

二週間経てば、少しは心が落ち着くかな、と思っているのですが、明日の心が今日はまだ、わかりません。重低音のように精神的ショックが続いているけれど、それでも明日は来るのだから、今は一日一日を大切に過ごしています。

あの日、私は東京に行く予定だったのですが、新幹線に乗るため京都駅に向かう直前、連絡が入りました。京都でも揺れはあったのですが、私はトレーニングスタジオにいて、床と鏡とダウンライトしかないような所だったので、感じなかったのです。その後も出かけていたし、どちらにせよ家にはテレビもないので、事態の深刻さを知りませんでした。
止まってしまった新幹線と、山手線全線不通っぽい、というのんで、東京でお会いする予定だった方に「ちょっと無理ですか?」なんて気楽なメールを送っていました。

家に帰ってもなかなか状況がわからず、ツイッターでただ事ではない様子を知り、朝方までタイムラインを追っていました。電話は駄目そうだし東北の友人に数件した携帯メールもレスがない。サッーとすごい速さで走るTLを追うのが精一杯でした。
翌日行く予定だった高円寺のライブハウスが都内の帰宅難民を受け入れているとか、様々な情報の中で、なるべく有益だと思うものをRTしていました。誰に有益なのかもわからないし、あの速さの中でTLを埋めるべきなのか迷いながら。

朝になってか、とりあえず東北関東方面のフォロワーの方にリプライやDMしたり、TL上にいらっしゃる方の安否は確認できたりしました。ツイッターにいない人にはまだ繋がりませんでした。こんなにツイッターに人や情報が集まってきたらダウンしないか、という不安もその時は気がつかないくらい、ツィート読むのに必死でした。そして、家族友人はネットで繋がっていない割合のほうが多いので、だんだん不安になって。

NHKがUSTで見られるようになって、呆然としました。

100枚ちょっと超えそうな作品を80枚までくらい書いていたのですが、三日間は何も書けませんでした。というか、そこまで書いたものすら、無意味に思え。

沢山の方があの日、日本のどこかで、あの出来事に遭遇したわけで、そのうちの一つの話です。私に関しては、これ以上長々書く必要はないと思うので、やめておきます。

事態が刻々と変化する中、多くの情報があり、毎日考えてしまいます。
そんな中、他の人がどんな気持ちでいるのか、何を思っているのかを、WEBで触れられることには良い面も沢山あります。

以下に私が触れたものの中から、いくつかをご紹介します。

*破滅派の高橋さんのエントリ「ある同人の震災」
仙台在住の同人の方が、ろうそくの明かりで読んでいたというカズオ・イシグロ『私を離さないで』はとても印象的な作品です。私を、離さないで。こんな時に改めて本の背表紙を眺めてみると、沢山の人の言葉が寄り添っているようなタイトルだと読めてしまいました。
そしてこの出来事に対するショックを「傷ついた」という言葉で表現されていて、ああ、そう、みんな傷ついているんだと、私自身どう表現していいかわからない感情に触れられた気がしました。

*同じく破滅派同人、アサミ・ラムジフスキーさんが、震災二日後の十三日に書かれた「帰り道に立っているよ」。交通手段のなくなった東京で帰宅し、帰り着いたご自宅の描写をされています。高橋さんのエントリでもありましたが、こんな時は本当に何を書いたらいいのかわかりません。それはモノを書く人に限った事ではないし、みんな語ることもできない事がありすぎるのではないでしょうか。それでも、書くことで自分の輪郭を保っている、という言葉が心に残りました。


*名古屋駅、シネマスコーレ側のカフェ「ロジウラのマタハリ」のりりこさんが書かれた「楽しく仕事をしていけるために」「今日という日」。お店の売り上げを義援金にされるにあたってのお考えです。特殊な状況の中で、なるべく「普通に」美味しくご飯を食べて頂くお仕事を毎日変わらず続け、それで出来る事をする、というかせざるをえない気持ちになっちゃうというの、共鳴しました。いつもと同じ仕事を続けたい、どうしたって「普通」でなどありえないけれど、「特別」ではないのかも知れない。それぞれの痛みや傷を負ったそれぞれの人が、元気になって、日々を暮らしていく。する側される側、ではなくなんか、それぞれの当事者なんだと思いました。

*義援金に関しては、ツイッターでも回したのだけれど、入谷聡さんのブログ「どこに寄付をしたらどこにお金が行くのか」
被災していない者が、「焦らない」「煽らない」のはもちろんだと思いますが、「何をすべきか、いったい何ができるのか」と、無力感にとらわれたり、それぞれの仕事を背負いつつ、それでもできることを考えてる方も多いのではないでしょうか。
とりあえず今のところ私が即座にできることは金銭的支援かなと。一度に寄付できる金額は些細ですが、細々とであれ長期的継続的に支援する上で、どこにどのようにお金を送るか、どう使われるかを知っておきたかったので、とても参考になりました。

あと関西に暮らす者としては、友人知人が避難疎開してきた場合に備え、引っ越したばかりの家を片付けることかな。この状況下でモノが多いとぼやく事は「不謹慎」なのかも知れませんが、ほんとにもうえらいことでした。この顛末がオモシロおかしく書ける気持ちを、取り戻したいと思ったりもしてます。
ただ、今ちょっと困ってるのが、引っ越してテレビをつないだのに、せっかくあるのに、見てるとなんかもういろいろしんどいって事です。

「大友良英のJAMJAM日記」
飴屋法水さんとのお話やJOJO広重さんの「いつか、音楽が聞こえてくるから」に対する回答。音楽、表現、そして仕事をする、というのんを、上記貼り付けさせていただいた記事と共に考えました。大友さんにはいつもヒントを頂いてる気がします。

*最後に、これもツイッターで回っていたので、読んだ方は多いかもしれませんが。
 ビートたけしさんの「週間ポスト」における発言を抜粋掲載された方がいらっしゃいました。
「言葉を奪う状況」で言葉を発する事は、ほんとに難しいけれど、ここに貼らせていただいた皆さんの言葉が、私にはしっかり届きました。

私は私の届けられるものを、届けたいと思っています。

2011年2月24日木曜日

引越し・アマレット・ポジティブ

笙野頼子の『居場所もなかった』(講談社 1993)は引越し小説です。

鳥はいいなあ、住民票がいらない。(P11)

というように、作家という社会的には「なにをやっているのかよくわからない」つまりは所得証明とか屋号とかね、色々会社勤めとは異なるかたちで「何者なのかはっきりさせねばならない」作者の、住む場所探しにまつわるお話ですが、いつもどおり怒ってます。

作者の他作品における怒りや、男性社会云々についてはちょっとつっこむ体力が私、ないです。ただ「住む場所探し」と「何者か」問題に関しては、大いに興味があるところ。切実だという点でもね。学校、とか、会社、という属性をなくすと世の中は思った以上にメンドクサイです。

私も十代の頃から「住む場所探し」においては「何者か」を説明する用意をしなければならなかったのですが、「なんとかする」っていうのが生きるって事にはふんだんに含まれている。現実に対する不満と共に「なんとかする」を並行に進めてく。そんなよくある学びの洗礼をうけた程度の話です。

この小説の面白さは「なんとかする」をしようとする中での怒りが、作品に昇華する醍醐味です。ぱらぱらと読み返してみました。

暴走族やトラックの騒音に対する怒りボルテージ。騒音とは、騒音を出す側がこちらの拒否を押してでも関わりたいという意思表示ではないかとし、「暴走族の愛だ。ライフルの愛でこたえてあげなくてはならないのか・・・・・・」と、相手を打ち落とす妄想をする。(大意)
そんな描写があるのですが、怒りを愛と変換するという怒りの大きさ。

私はさ、なんだかこの怒りと寂しさに共感しきる事も同情する事も笑う事もできず、ただ一人の部屋で煩悶する女の姿を思うとページをめくる手が止まらなかったです。読むっていうのはなんてこと、読んでいる自分のイヤラシさや残酷さを感じもするけど、まあそれは別の話。

他にもさまざま、「何者なのかよくわからない」立場の人間が住処をさがすときのタイヘンさと怒りボルテージが細部にわたり書き込まれています。
大家との面接審査に際し「適した」服装を不動産屋から提案されたり、イギリスでは無職が一番尊敬されるとか嫌味を言われたり、才能があって素晴らしいことですが家賃がとぎれたらどうするの、そもそも暗い人は大家に好かれない、暗くて芯が強いなんて最悪で交渉すらできない、などなど、部屋ひとつ借りるのでここまでの人権侵害。

酷いよね。沢山の人が怒りを感じるのは無理もない。
でもさ、怒って変わる物事って実はそもそも脆弱なのかもしれない。

確かに属性がないのはメンドクサイ。でもそれを要請され「なんとかする」を繰り返してみて、私は本当に属性がないのかしら、と思った。ていうか、自分はどこにも属していない=「居場所がない」のはそうなんだけど、それ嘆いていてもしょうがない。だってあらゆるメンドクサさのうちの一つを引き受けてるわけなんだから。で、会社とか学校という類の属性はないわけなんだけど、もういいや、属性がないことに固執するのもバカらしいし、なんらか通用する属性を作っちゃえ。それを名刺のように提示する。それくらいの虚実の不条理さに耐える程度には自分を鍛えねばと思った。
そうして虚言のような戯言のようなぺらぺらの紙をふりかざして、切り抜けてみて、別にそれだって私の属性の一つではないのか、と。
それにさ。
問題は、属性なんかじゃない。
「居場所もなかった」というのはそんな紙の切れ端のようなもんでどうにかなる感覚ではないのだから。

なんて、随分前に読んだ本の話をしているのはですね。
私がまたもや、引越し、をするからであります。
京都在住十年目にして、七回目。頭おかしいですね。しかも現在色々重なってて忙しい時期なのですが、もう引越しっていうのは私にとって、メンドクサイを通り過ぎた何かになっているのでしょう。人生においてはトータルで何回しているのか数えたくもありません。

でも今回引越しをするのは、「もうしばらく引越しなんかしない」為、なのかも知れません。
「居場所もなかった」と「属性」と「住む」というテーマは今ぐるりと巡って、一つの束になろうとしています。
まぁ引越し好きの物件マニア、交渉マニアであるのは事実で、次回はも少し軽い感じで、「京都物件事情」「デザイン?オア習慣?」「シェア?オア共同生活?」「住まうという運動(←確かなんかのパクリ)」「私の引越しサーガ(そんなこと知りたい人いるか疑問)」などといった内容について書こうと思っています。こんなタイトルだけなら、湖の底から出てきた奴が銀の斧を大量に投げつけるがごとく湧いてきます。

ともあれ。
メンドクサイ手続きをしつつ、居場所なんて、居場所なんて、見つけるし作るんだもん。

2011年2月7日月曜日

見慣れちまった悲しみに

二月に入って時々暖かい日も訪れるようになりましたが、まだまだ冬ボックスの中ですね。皆さんお元気でしょうか。私は風邪ひいて治りかけてまたひいて治りかけたりしています。

日常がどうあれブログの更新と排水溝の掃除は定期的にしたいと思うこの頃です。喩えっていうのは幅が広すぎるので、排水溝なんて書いたらブログに汚水を流し込んでるみたいやんかと自分の文章を深読みしすぎて右にも左にも動けなくなりました。

言葉通りの意味で受け止めていただけるとうれしいです。ブログの更新と排水溝の掃除とまな板の除菌は定期的に行いたいものです。

というわけで、ブログのテンプレなどを先月さりげに変えました。そしてこのエントリの下書き、日付が一月24日になっています。二週間近く経ってらぁ。怖いよう。

そしてもっと怖いのは、見慣れちまった愛着という悲しみでしょう。

私のブログは更新の間隔が広いくせに一回のエントリが長い、話がくどい、話が長い、話が回りくどい、論理崩壊してるのになんか説教くさい、時々不気味なほど感傷的、などなど色々ご意見をうかがっています。まあ長いとかくどいとかは性格に起因する部分も多くて、ある程度生きちゃってるともうどうしようもないかな、と思うのですがまだ治りますでしょうか?

ともあれ、文字の大きさや数字の書体など色々気になっていることがあったので、テンプレごと設定を手直ししたのですが、見慣れちまった悲しみは大きかったです。

ブロガーさんはシンプルでガジェットの移動などデザイン変更しやすいところが好きですので、画像取り込みなどはせずにシンプル背景を活かしたい、という基本姿勢に変化はありません。
しかし、変化なさすぎだろこれ。
背景とか構成、変えるんだったらもっと変えろよ。
しかしこれでもテンプレ自体変更してますし、アドバンスにいたっては細かくいじってます。
誤字、固有名詞の誤入力が多いので、取り消し線の導入、タグ画面自体の入力文字を大きくするなどセルフモラル向上委員会も設置してハチマキまいたり旗振ったりしてました。
けれど途中で、「限りなく元のデザインに近づけようとしているブルー」に気がついてしまったのです。まだ君を思い出とは呼びたくないんだとか言いながら作業を続行し、結果このような、なんか字はでかくなってるけど全体の印象はかわんない、というデザイン更新になっております。

一回好きになったらずっと好きよ。
この一人上意下達的人生の指針がここでも活きまくっていますが、マンネリズムとの戦いはどうするんだ。生きとし生けるものはすべて移ろいゆく、だから寂しくなんてないんだよ、と自分を慰めてきたけれど、変化ゆえのお別れだってあるのです。

まぁ、とりあえず、また長いとか言われますのでこのへんにしときます。長いくどい問題も変化しなくていい、なんて上から目線であぐらなど、かいていませんよ。

2011年1月19日水曜日

恐山、いきたい

恐山に行きたいです。

夏が好きです。元気です。
じゃあ冬は嫌いなのかと言われると、そうじゃない。寒いの苦手だけど。
冬が嫌いだからって夏が好きという論理展開は「否定快楽原則」です。知りませんか?知りませんよね、4年位前に私がつけた名前ですから。そしてこの原則に負けない!負けたくない!と4年位前に名前をつけたそばから戦う決意をしたのでした。

「否定快楽原則」のスタンダードな文脈は「冬が嫌い、ゆえに夏が好き」です。これはいくらでも応用可能だし、ちょっと難しめの本もよくよく読んでみたらこの原則、制度イデオロギーも、ていうか選挙すらこれじゃぁねーの。できたら心太は食べたくないけどカキ氷よりましだから好きだったことにするとか、この季節ならほぼ我慢大会ですね。ただ人はっていうか私はこういう心理操作をして自分を欺こうとします。泣く泣く選ぶしかないからってあたかも好きだと暗示をかける。自己防衛としては有効かもしれません。そういえば松浦理英子『親指Pの修業時代』に、好きでもない人を好きと自己暗示かけるというビジネスを考え出した女性が確か登場したけれど、ビジネスを終了させたときにどうやって自己暗示を解くのだろう。と話がずれたので。

おいといて。
生きるってことはほぼ泣く泣く選ぶ事の積み重ねなわけなので、なるべく泣く泣く選ぶしかなかったことは、泣く泣く選んだのだ、と自覚しておきたい。
私というのは、防衛がどこか破綻した国家であり、ペンタゴンとかあってもグダグダなのでしょうか。常勤職員が衛星見はってるふりしてソリティアやってるみたいな勤務態度なのでしょうか。
自己暗示かけて自己防衛するということの必要性はある程度生きてるとわかってもいいもんだけど、別に清純だとか、そんなんじゃなく、そんな生ぬるい話ではなく、ただ、国防総省はグダグダでも理念だけはでかい国、なのかも知れません。国である限り清らかとかあるわけないだろうが。手は汚してますよ。背理もありますよ。存在しているだけで他から搾取してますよ。

でもね、清らかではないにしろ、嫌いなものを否定するため反転した好きを捏造することはできん!何故なら、「私はそんなものが嫌いだからこれが好き」という文脈で好きを躍起させると、好きなものを好きでいたいのか、嫌いなものに対する否定を強調したいために別のなにかを好きなのか、その境界が濁ってくるのです。好きなものはただ好きでいたい。そして好きでないものを泣く泣く選んでしまったのは状況が原因のときも自分自身が原因のときも、どっちもありうるというキツさを忘れないでいたい。好きじゃないものを否定したり見下したりするのではなく、なんで好きじゃないんかなぁ、と時々ぼんやり考えることの方が窮屈じゃないし、ごまかすために好きを使いたくない。故に、「否定快楽原則」否定!とアジテーションしたわけです、自分に対してね。

普段の三割り増しの回りくどい文章とちょっとした暗さからもお察しいただけるように、冬はいろいろと機能が低下します。特に現実社会に対応する面。仕事営業意欲などライフラインを左右する事柄から、ゴミ出しなどのルーティーンに至るまで。しかし読書や書き物などはそうでもない、そうでもない、と言い聞かせますが、本のセレクトが偏るので気をつけねばなりません。シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』は落ち込みました。夏に読むのと手触りがまったく違う、冬には危険だとわかっていても読み返してしまう、わかっていてもこうして話がずれていく。

恐山に行きたい。

いよいよやばいのかと思われるかも知れませんが、いや実際、寒いと体がしんどいんで切実なんですが、冬の空気はキリッとせざるを得ないかんじでいいし、お風呂入った瞬間の指先びりびり感もいい。生きてる間にあと何度このかんじを味わえるのかと思ったら、なるべくこのかんじを楽しみたい。だから恐山に行きたい。

以前青森に一人旅したのは二月で、三沢の寺山修司記念館と金木町の太宰治「斜陽館」に行き、合間の温泉宿を転々としました。寺山修司記念館は朝から閉館までいて、その間私以外に一人しか来館者がなく時間が止まったような、空気が止まったような。冬はバスも運行停止なので三沢からタクシーで行くしかなかったし。五所川原から乗った津軽鉄道でおばあちゃんから車内のストーブで焼いたスルメと日本酒をもらいました。五臓六腑にしみわたる、とはあの事だと、そしておばあちゃんの深い皺が忘れられません。ヴェルレーヌのあの一節が書いてある文学碑を見に行くため「だけ」に買ったホーキンスのスノーブーツでは太刀打ちできん積雪で、あげく文学碑自体が雪に埋もれて近づけないという。
そんなことしてて、恐山には行けなかったのです。真冬の恐山。通行止めなんじゃないの?と思うし、さすがにイタコもいないと思うけど、行きたい。そして心ゆくまで「寒いわ!」と言いたい。

ていうか「否定快楽原則」とか言葉捏造する以前に、どうにかして苦手な寒さを好きになってごまかそうとしてないか、という問いが、書き出してまもなく湧きました。

しかし、寒さは苦手でも冬は嫌いじゃない。
東北の雪の美しさは格別で、音を飲む。で小さく小さくはきだしていて、光って、きれい、なのです。

季節の美しさにはいつも手が届かないし、うつろうことのどうしようもなさはどうしようもできないけど、例えば変な磁石みたいなもので四季を操れるような強大な力を持っても、たぶん春も夏も秋も冬も、めぐらせてしまうのだと思う。寒さは強烈な暖かさも運んでくれますから。

2011年1月6日木曜日

さよなら、かんりきょういく

年末年始のさまざまなイベント時期に、ブログ更新できなかったのはもちろん私がリア充だからです。
この二三週間の美しき寝乱れぶりはツイッターのPOSTで簡単に露見しちゃうんだから、怖いな、ツイッターかわいいな。
ところで、いま軽く二三週間、と書いて、実際は確実に三週間経っている恐ろしさから目をそむけようとしましたよ。数字のこういう濁し方は任意であれ無意識であれ、巧妙です。

三週間、そう、この月曜日だの水曜日だの日曜日だのが三回来るシステムは時計台が都市に出来たからっつって人間が時間に支配されたうんぬんかんぬんくらい、考えたところでどうしようもないよね。でも週に一回くらいは考えちゃうけど。

で、年末年始のさまざまなイベント時期に2010年を振りかえったり、新年の抱負を書いたりせずになにやっていたのかと言えば、ライブ、映画、映画、ライブ、リア充満載です。ていうか、手帳見ないと何日にどこ行ったかわかんないくらい!うわっ書いてて自分でむかつく。実際はゴロゴロしたり飲んだり飲まれたり、で反省して年明けすぐトレーニングに移行しちゃう小心者ぶりがさらに腹立つんだけど、実際、生きてる間はなるべく身軽くしんどくないようにいたいんだよ。

ただ、映画、ライブ、映画、映画、って、基本的に人様の表現を消費しているわけですよね。素晴らしい消費資源が沢山、読書や展覧会含めたら、私の一年なんぞ表現消費ですから、振り返ったり抱負を述べたりするまでもないかもしれないです。

と、年明け一週すぎて始めてます、振り返りです。毎度の事ながら観念と感傷と言い訳だけかもしれないけれど、エントリータイトルの管理教育はまったく関係ないかもしれないけれど、驚くべき論理ねじ曲げでたどり着くのかもしれないけれど。

年末年始気分の底なし沼からどろっとした足を踏み出そうとしている皆様と共に、私もちゃちゃっと過ぎ去りし年度と来たりし年度に線をひく。鋏をいれとく。

2010年から11年にかけてざくっとイン・アウトしたこと。

①関係性のかたちなぞ、いくらでも変わってく。それがさみしかったりやるせなかったりする時、あえて「手を離す」選択をすることで、大事な気持ちを逆に守れる、っていうこと。私小説レベルに個人的なことなんでそう書けないけど、友達、とか、家族、とかいう言葉が結局私のテーマなのだった。 

②美に関する積年の疑問、「怖いものや醜いものに美しさを感じる」という感覚の反転した権力と、それでも対抗しなきゃなんない権力のありかについて。結局権力闘争そのものが無意味だと思い知った。私だって野に咲く花に美しさを感じる。でも悲しみや苦しみにも美しさを感じることがそれより高い感度なのだという視点じたい、馬鹿げてる。し、閉じてる。ひとの眼球とそこから脳につながる神経作用など、どうこうなどできないし、したって面白くもなんともない。そもそも経験だって違う。私はニーチェと同じく自分が経験しえなかったすべての経験に嫉妬するけれど、その嫉妬を楽しみたい。凝視ではない、想像力だけがその呪縛をといてくれるから、美の二分法など、それこそ「手離す」。そのうえで、美しいものはただ美しく純粋だとかいう退屈な話も手離して、飛んでみたら、めっちゃ楽しくなった。

③そう、楽しい。素晴らしい。そういうものが多すぎる。ここで所謂「新年の抱負」をビルトインする文脈に私自身が一番びびってますが、今年はね、楽しいもの、いいもの、ステキなものを、じゃんじゃん感じて伝達していきますよ。だって、それ楽しいんだもの。
そもそも、「破滅派7号」のアサミ・ラムジフスキー氏の短編、「グッバイ、ララバイ」がマジ面白かったんです。え、年はさんでまだ言っちゃうの?とか、同人が同人褒めまくってどうすんの?とかあるでしょう。わかってますから念のため年明けてもう一回読み直しましたが、寝転んで読んだって一行目から素晴らしいです。本当は年内にもう一回宣伝しまくりたかった素晴らしさを今やってるだけ。ご本人は音楽活動やあらたな展開されていて、ブログも面白いし、今更かもしれないけれど、いっぱしの読書家気取りでいる私をして、2010年かなりのヒット作品。もっと読まれるべき作品。買ってみて。私の作品ももれなく同じ雑誌にあるからじゃないよ、そうじゃないよ。むしろ恐縮で、私も精進しようと思ったのだから。

④こういう楽しさも、ネットを復活させ、ツイッターをがっつり楽しむようになって享受できた部分は大きい。「がっつり」とか「ガクブル」とかその他色々古かったり更新されたり揶揄される言葉にある力というかテンションを楽しんでいるので、それが下品とかいう話はもう無視しちゃう。まったく好みの問題で例えば「イマサラワロタ」とかはなんとなく感性が許さないから使わないだけです。下品と上品は美と醜に呼応するので、結局想像力です。べつに怒ってません。だいたい、前項の「読まれるべき作品」というのもツイッターにおける高橋源一郎氏の「読まれるべき詩」のパクリです。でもさぁ、この時代においてオリジナリティとかじゃないでしょ、剽窃で積み上げられているからって原典辿って何が面白いの?
とはいえ、もちろん原典を読む楽しさも満開ですよ。それはぜんぜん違う体験。

⑤素晴らしいものは素晴らしい。古典だろうとラノベだろうと。巨匠であろうと商業デザインであろうと。権威とお金が対立するとかドロドロであるとかいうつまらん議論をやめて、うろこばりばりの光ったものを涙のようにこぼしながら見てみる。そして感じた上で伝達する。もっとも幸福な手段が褒めることで、無論いいと思わないものを褒めることなどできません。でもいいと思わないものをわざわざゴーグルはめて探す人生など、嫌じゃ。

⑥結局言葉であって。愛してる、という言葉を発する自分を覗き込んでみるとそこには空洞しかなかった。だから、愛している、などと魍魎な言葉を乱用してはならないと痛感した若かりし日を経て、あえて愛していると言ってみたとき、本当に、真実、愛しているかどうかではなく、愛という言葉の真理ではなく、その言葉を発することによって起こる現象を愛しているのだと知った。・・・という、内田樹氏の本は沢山読んだのでどこからの引用かはっきりできませんし、誤読があるかもしれません。ただ、言葉の限界や不自由さを憂いて見せるのは、一瞬かっこいい、って思うときもあるけど、私はその言葉の無責任さ含め発してしまった共犯性、伝えてしまった故に担わなければならない罪、を背負うほうがかっこいいと思うのだった。

⑦ふわっ。まさかここまで来るとは思わなかったけれど、褒めるといえば元旦の事。土鍋買うため通過地点の八坂さんに成り行きで初詣しようかと、連れ合いと歩いてた時のこと。少し前を歩いていたおじさんが落とした手袋を、連れが小走りで拾って声かけたんだよね。人が落としたものを拾って届けるというの、色々数年体調とかしんどかったのに自然にできて、すごくいいところで。そういう要素が身近な人に沢山あるのね、と。人なんてわかりきれない。カテゴライズが想像力をしぼませるならきっぱり、反発する。年末会った友達もそうだけど、言葉で定義できない行為があるから、褒めたりなんやかんや、言葉はぐるっと本物になる。

⑧ふわわっ。限りなく予定調和的に見えるかもしれないけれどガチです。管理と教育ってすごい言葉を組み合わせたもんだなぁ、程度に思っていただけなのに、まぁ管理教育地域と認識される土地で生まれ育ったのでそれなりに思うところがないわけでもないけれど、適当につけたタイトルにねじ曲げて戻ってきた。このへんはさすがなので自分を褒めて面白い小説書こう。なぜなら、ステキだと思うことを褒めて、それがいかにステキかを伝えたい。伝える説得力を持つ意味でもいいもの書きたい。そんなことが目標であって、追い詰める教育、啓蒙、なんてさよならですよという話。ややこしくてすみません。いやべつに、ずっと前からさよならしてたのだけど。ゆとり教育とか難しい問題はあれだけど。ステキな事が沢山で、それは美醜の枠組みをさっと超える。

え、ていうか、これが振り返りと抱負ですか。
始まってるような終わってるような。ぐるぐる巡って繋がってるような。