恐山に行きたいです。
夏が好きです。元気です。
じゃあ冬は嫌いなのかと言われると、そうじゃない。寒いの苦手だけど。
冬が嫌いだからって夏が好きという論理展開は「否定快楽原則」です。知りませんか?知りませんよね、4年位前に私がつけた名前ですから。そしてこの原則に負けない!負けたくない!と4年位前に名前をつけたそばから戦う決意をしたのでした。
「否定快楽原則」のスタンダードな文脈は「冬が嫌い、ゆえに夏が好き」です。これはいくらでも応用可能だし、ちょっと難しめの本もよくよく読んでみたらこの原則、制度イデオロギーも、ていうか選挙すらこれじゃぁねーの。できたら心太は食べたくないけどカキ氷よりましだから好きだったことにするとか、この季節ならほぼ我慢大会ですね。ただ人はっていうか私はこういう心理操作をして自分を欺こうとします。泣く泣く選ぶしかないからってあたかも好きだと暗示をかける。自己防衛としては有効かもしれません。そういえば松浦理英子『親指Pの修業時代』に、好きでもない人を好きと自己暗示かけるというビジネスを考え出した女性が確か登場したけれど、ビジネスを終了させたときにどうやって自己暗示を解くのだろう。と話がずれたので。
おいといて。
生きるってことはほぼ泣く泣く選ぶ事の積み重ねなわけなので、なるべく泣く泣く選ぶしかなかったことは、泣く泣く選んだのだ、と自覚しておきたい。
私というのは、防衛がどこか破綻した国家であり、ペンタゴンとかあってもグダグダなのでしょうか。常勤職員が衛星見はってるふりしてソリティアやってるみたいな勤務態度なのでしょうか。
自己暗示かけて自己防衛するということの必要性はある程度生きてるとわかってもいいもんだけど、別に清純だとか、そんなんじゃなく、そんな生ぬるい話ではなく、ただ、国防総省はグダグダでも理念だけはでかい国、なのかも知れません。国である限り清らかとかあるわけないだろうが。手は汚してますよ。背理もありますよ。存在しているだけで他から搾取してますよ。
でもね、清らかではないにしろ、嫌いなものを否定するため反転した好きを捏造することはできん!何故なら、「私はそんなものが嫌いだからこれが好き」という文脈で好きを躍起させると、好きなものを好きでいたいのか、嫌いなものに対する否定を強調したいために別のなにかを好きなのか、その境界が濁ってくるのです。好きなものはただ好きでいたい。そして好きでないものを泣く泣く選んでしまったのは状況が原因のときも自分自身が原因のときも、どっちもありうるというキツさを忘れないでいたい。好きじゃないものを否定したり見下したりするのではなく、なんで好きじゃないんかなぁ、と時々ぼんやり考えることの方が窮屈じゃないし、ごまかすために好きを使いたくない。故に、「否定快楽原則」否定!とアジテーションしたわけです、自分に対してね。
普段の三割り増しの回りくどい文章とちょっとした暗さからもお察しいただけるように、冬はいろいろと機能が低下します。特に現実社会に対応する面。仕事営業意欲などライフラインを左右する事柄から、ゴミ出しなどのルーティーンに至るまで。しかし読書や書き物などはそうでもない、そうでもない、と言い聞かせますが、本のセレクトが偏るので気をつけねばなりません。シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』は落ち込みました。夏に読むのと手触りがまったく違う、冬には危険だとわかっていても読み返してしまう、わかっていてもこうして話がずれていく。
恐山に行きたい。
いよいよやばいのかと思われるかも知れませんが、いや実際、寒いと体がしんどいんで切実なんですが、冬の空気はキリッとせざるを得ないかんじでいいし、お風呂入った瞬間の指先びりびり感もいい。生きてる間にあと何度このかんじを味わえるのかと思ったら、なるべくこのかんじを楽しみたい。だから恐山に行きたい。
以前青森に一人旅したのは二月で、三沢の寺山修司記念館と金木町の太宰治「斜陽館」に行き、合間の温泉宿を転々としました。寺山修司記念館は朝から閉館までいて、その間私以外に一人しか来館者がなく時間が止まったような、空気が止まったような。冬はバスも運行停止なので三沢からタクシーで行くしかなかったし。五所川原から乗った津軽鉄道でおばあちゃんから車内のストーブで焼いたスルメと日本酒をもらいました。五臓六腑にしみわたる、とはあの事だと、そしておばあちゃんの深い皺が忘れられません。ヴェルレーヌのあの一節が書いてある文学碑を見に行くため「だけ」に買ったホーキンスのスノーブーツでは太刀打ちできん積雪で、あげく文学碑自体が雪に埋もれて近づけないという。
そんなことしてて、恐山には行けなかったのです。真冬の恐山。通行止めなんじゃないの?と思うし、さすがにイタコもいないと思うけど、行きたい。そして心ゆくまで「寒いわ!」と言いたい。
ていうか「否定快楽原則」とか言葉捏造する以前に、どうにかして苦手な寒さを好きになってごまかそうとしてないか、という問いが、書き出してまもなく湧きました。
しかし、寒さは苦手でも冬は嫌いじゃない。
東北の雪の美しさは格別で、音を飲む。で小さく小さくはきだしていて、光って、きれい、なのです。
季節の美しさにはいつも手が届かないし、うつろうことのどうしようもなさはどうしようもできないけど、例えば変な磁石みたいなもので四季を操れるような強大な力を持っても、たぶん春も夏も秋も冬も、めぐらせてしまうのだと思う。寒さは強烈な暖かさも運んでくれますから。
2011年1月6日木曜日
さよなら、かんりきょういく
年末年始のさまざまなイベント時期に、ブログ更新できなかったのはもちろん私がリア充だからです。
この二三週間の美しき寝乱れぶりはツイッターのPOSTで簡単に露見しちゃうんだから、怖いな、ツイッターかわいいな。
ところで、いま軽く二三週間、と書いて、実際は確実に三週間経っている恐ろしさから目をそむけようとしましたよ。数字のこういう濁し方は任意であれ無意識であれ、巧妙です。
三週間、そう、この月曜日だの水曜日だの日曜日だのが三回来るシステムは時計台が都市に出来たからっつって人間が時間に支配されたうんぬんかんぬんくらい、考えたところでどうしようもないよね。でも週に一回くらいは考えちゃうけど。
で、年末年始のさまざまなイベント時期に2010年を振りかえったり、新年の抱負を書いたりせずになにやっていたのかと言えば、ライブ、映画、映画、ライブ、リア充満載です。ていうか、手帳見ないと何日にどこ行ったかわかんないくらい!うわっ書いてて自分でむかつく。実際はゴロゴロしたり飲んだり飲まれたり、で反省して年明けすぐトレーニングに移行しちゃう小心者ぶりがさらに腹立つんだけど、実際、生きてる間はなるべく身軽くしんどくないようにいたいんだよ。
ただ、映画、ライブ、映画、映画、って、基本的に人様の表現を消費しているわけですよね。素晴らしい消費資源が沢山、読書や展覧会含めたら、私の一年なんぞ表現消費ですから、振り返ったり抱負を述べたりするまでもないかもしれないです。
と、年明け一週すぎて始めてます、振り返りです。毎度の事ながら観念と感傷と言い訳だけかもしれないけれど、エントリータイトルの管理教育はまったく関係ないかもしれないけれど、驚くべき論理ねじ曲げでたどり着くのかもしれないけれど。
年末年始気分の底なし沼からどろっとした足を踏み出そうとしている皆様と共に、私もちゃちゃっと過ぎ去りし年度と来たりし年度に線をひく。鋏をいれとく。
2010年から11年にかけてざくっとイン・アウトしたこと。
①関係性のかたちなぞ、いくらでも変わってく。それがさみしかったりやるせなかったりする時、あえて「手を離す」選択をすることで、大事な気持ちを逆に守れる、っていうこと。私小説レベルに個人的なことなんでそう書けないけど、友達、とか、家族、とかいう言葉が結局私のテーマなのだった。
②美に関する積年の疑問、「怖いものや醜いものに美しさを感じる」という感覚の反転した権力と、それでも対抗しなきゃなんない権力のありかについて。結局権力闘争そのものが無意味だと思い知った。私だって野に咲く花に美しさを感じる。でも悲しみや苦しみにも美しさを感じることがそれより高い感度なのだという視点じたい、馬鹿げてる。し、閉じてる。ひとの眼球とそこから脳につながる神経作用など、どうこうなどできないし、したって面白くもなんともない。そもそも経験だって違う。私はニーチェと同じく自分が経験しえなかったすべての経験に嫉妬するけれど、その嫉妬を楽しみたい。凝視ではない、想像力だけがその呪縛をといてくれるから、美の二分法など、それこそ「手離す」。そのうえで、美しいものはただ美しく純粋だとかいう退屈な話も手離して、飛んでみたら、めっちゃ楽しくなった。
③そう、楽しい。素晴らしい。そういうものが多すぎる。ここで所謂「新年の抱負」をビルトインする文脈に私自身が一番びびってますが、今年はね、楽しいもの、いいもの、ステキなものを、じゃんじゃん感じて伝達していきますよ。だって、それ楽しいんだもの。
そもそも、「破滅派7号」のアサミ・ラムジフスキー氏の短編、「グッバイ、ララバイ」がマジ面白かったんです。え、年はさんでまだ言っちゃうの?とか、同人が同人褒めまくってどうすんの?とかあるでしょう。わかってますから念のため年明けてもう一回読み直しましたが、寝転んで読んだって一行目から素晴らしいです。本当は年内にもう一回宣伝しまくりたかった素晴らしさを今やってるだけ。ご本人は音楽活動やあらたな展開されていて、ブログも面白いし、今更かもしれないけれど、いっぱしの読書家気取りでいる私をして、2010年かなりのヒット作品。もっと読まれるべき作品。買ってみて。私の作品ももれなく同じ雑誌にあるからじゃないよ、そうじゃないよ。むしろ恐縮で、私も精進しようと思ったのだから。
④こういう楽しさも、ネットを復活させ、ツイッターをがっつり楽しむようになって享受できた部分は大きい。「がっつり」とか「ガクブル」とかその他色々古かったり更新されたり揶揄される言葉にある力というかテンションを楽しんでいるので、それが下品とかいう話はもう無視しちゃう。まったく好みの問題で例えば「イマサラワロタ」とかはなんとなく感性が許さないから使わないだけです。下品と上品は美と醜に呼応するので、結局想像力です。べつに怒ってません。だいたい、前項の「読まれるべき作品」というのもツイッターにおける高橋源一郎氏の「読まれるべき詩」のパクリです。でもさぁ、この時代においてオリジナリティとかじゃないでしょ、剽窃で積み上げられているからって原典辿って何が面白いの?
とはいえ、もちろん原典を読む楽しさも満開ですよ。それはぜんぜん違う体験。
⑤素晴らしいものは素晴らしい。古典だろうとラノベだろうと。巨匠であろうと商業デザインであろうと。権威とお金が対立するとかドロドロであるとかいうつまらん議論をやめて、うろこばりばりの光ったものを涙のようにこぼしながら見てみる。そして感じた上で伝達する。もっとも幸福な手段が褒めることで、無論いいと思わないものを褒めることなどできません。でもいいと思わないものをわざわざゴーグルはめて探す人生など、嫌じゃ。
⑥結局言葉であって。愛してる、という言葉を発する自分を覗き込んでみるとそこには空洞しかなかった。だから、愛している、などと魍魎な言葉を乱用してはならないと痛感した若かりし日を経て、あえて愛していると言ってみたとき、本当に、真実、愛しているかどうかではなく、愛という言葉の真理ではなく、その言葉を発することによって起こる現象を愛しているのだと知った。・・・という、内田樹氏の本は沢山読んだのでどこからの引用かはっきりできませんし、誤読があるかもしれません。ただ、言葉の限界や不自由さを憂いて見せるのは、一瞬かっこいい、って思うときもあるけど、私はその言葉の無責任さ含め発してしまった共犯性、伝えてしまった故に担わなければならない罪、を背負うほうがかっこいいと思うのだった。
⑦ふわっ。まさかここまで来るとは思わなかったけれど、褒めるといえば元旦の事。土鍋買うため通過地点の八坂さんに成り行きで初詣しようかと、連れ合いと歩いてた時のこと。少し前を歩いていたおじさんが落とした手袋を、連れが小走りで拾って声かけたんだよね。人が落としたものを拾って届けるというの、色々数年体調とかしんどかったのに自然にできて、すごくいいところで。そういう要素が身近な人に沢山あるのね、と。人なんてわかりきれない。カテゴライズが想像力をしぼませるならきっぱり、反発する。年末会った友達もそうだけど、言葉で定義できない行為があるから、褒めたりなんやかんや、言葉はぐるっと本物になる。
⑧ふわわっ。限りなく予定調和的に見えるかもしれないけれどガチです。管理と教育ってすごい言葉を組み合わせたもんだなぁ、程度に思っていただけなのに、まぁ管理教育地域と認識される土地で生まれ育ったのでそれなりに思うところがないわけでもないけれど、適当につけたタイトルにねじ曲げて戻ってきた。このへんはさすがなので自分を褒めて面白い小説書こう。なぜなら、ステキだと思うことを褒めて、それがいかにステキかを伝えたい。伝える説得力を持つ意味でもいいもの書きたい。そんなことが目標であって、追い詰める教育、啓蒙、なんてさよならですよという話。ややこしくてすみません。いやべつに、ずっと前からさよならしてたのだけど。ゆとり教育とか難しい問題はあれだけど。ステキな事が沢山で、それは美醜の枠組みをさっと超える。
え、ていうか、これが振り返りと抱負ですか。
始まってるような終わってるような。ぐるぐる巡って繋がってるような。
この二三週間の美しき寝乱れぶりはツイッターのPOSTで簡単に露見しちゃうんだから、怖いな、ツイッターかわいいな。
ところで、いま軽く二三週間、と書いて、実際は確実に三週間経っている恐ろしさから目をそむけようとしましたよ。数字のこういう濁し方は任意であれ無意識であれ、巧妙です。
三週間、そう、この月曜日だの水曜日だの日曜日だのが三回来るシステムは時計台が都市に出来たからっつって人間が時間に支配されたうんぬんかんぬんくらい、考えたところでどうしようもないよね。でも週に一回くらいは考えちゃうけど。
で、年末年始のさまざまなイベント時期に2010年を振りかえったり、新年の抱負を書いたりせずになにやっていたのかと言えば、ライブ、映画、映画、ライブ、リア充満載です。ていうか、手帳見ないと何日にどこ行ったかわかんないくらい!うわっ書いてて自分でむかつく。実際はゴロゴロしたり飲んだり飲まれたり、で反省して年明けすぐトレーニングに移行しちゃう小心者ぶりがさらに腹立つんだけど、実際、生きてる間はなるべく身軽くしんどくないようにいたいんだよ。
ただ、映画、ライブ、映画、映画、って、基本的に人様の表現を消費しているわけですよね。素晴らしい消費資源が沢山、読書や展覧会含めたら、私の一年なんぞ表現消費ですから、振り返ったり抱負を述べたりするまでもないかもしれないです。
と、年明け一週すぎて始めてます、振り返りです。毎度の事ながら観念と感傷と言い訳だけかもしれないけれど、エントリータイトルの管理教育はまったく関係ないかもしれないけれど、驚くべき論理ねじ曲げでたどり着くのかもしれないけれど。
年末年始気分の底なし沼からどろっとした足を踏み出そうとしている皆様と共に、私もちゃちゃっと過ぎ去りし年度と来たりし年度に線をひく。鋏をいれとく。
2010年から11年にかけてざくっとイン・アウトしたこと。
①関係性のかたちなぞ、いくらでも変わってく。それがさみしかったりやるせなかったりする時、あえて「手を離す」選択をすることで、大事な気持ちを逆に守れる、っていうこと。私小説レベルに個人的なことなんでそう書けないけど、友達、とか、家族、とかいう言葉が結局私のテーマなのだった。
②美に関する積年の疑問、「怖いものや醜いものに美しさを感じる」という感覚の反転した権力と、それでも対抗しなきゃなんない権力のありかについて。結局権力闘争そのものが無意味だと思い知った。私だって野に咲く花に美しさを感じる。でも悲しみや苦しみにも美しさを感じることがそれより高い感度なのだという視点じたい、馬鹿げてる。し、閉じてる。ひとの眼球とそこから脳につながる神経作用など、どうこうなどできないし、したって面白くもなんともない。そもそも経験だって違う。私はニーチェと同じく自分が経験しえなかったすべての経験に嫉妬するけれど、その嫉妬を楽しみたい。凝視ではない、想像力だけがその呪縛をといてくれるから、美の二分法など、それこそ「手離す」。そのうえで、美しいものはただ美しく純粋だとかいう退屈な話も手離して、飛んでみたら、めっちゃ楽しくなった。
③そう、楽しい。素晴らしい。そういうものが多すぎる。ここで所謂「新年の抱負」をビルトインする文脈に私自身が一番びびってますが、今年はね、楽しいもの、いいもの、ステキなものを、じゃんじゃん感じて伝達していきますよ。だって、それ楽しいんだもの。
そもそも、「破滅派7号」のアサミ・ラムジフスキー氏の短編、「グッバイ、ララバイ」がマジ面白かったんです。え、年はさんでまだ言っちゃうの?とか、同人が同人褒めまくってどうすんの?とかあるでしょう。わかってますから念のため年明けてもう一回読み直しましたが、寝転んで読んだって一行目から素晴らしいです。本当は年内にもう一回宣伝しまくりたかった素晴らしさを今やってるだけ。ご本人は音楽活動やあらたな展開されていて、ブログも面白いし、今更かもしれないけれど、いっぱしの読書家気取りでいる私をして、2010年かなりのヒット作品。もっと読まれるべき作品。買ってみて。私の作品ももれなく同じ雑誌にあるからじゃないよ、そうじゃないよ。むしろ恐縮で、私も精進しようと思ったのだから。
④こういう楽しさも、ネットを復活させ、ツイッターをがっつり楽しむようになって享受できた部分は大きい。「がっつり」とか「ガクブル」とかその他色々古かったり更新されたり揶揄される言葉にある力というかテンションを楽しんでいるので、それが下品とかいう話はもう無視しちゃう。まったく好みの問題で例えば「イマサラワロタ」とかはなんとなく感性が許さないから使わないだけです。下品と上品は美と醜に呼応するので、結局想像力です。べつに怒ってません。だいたい、前項の「読まれるべき作品」というのもツイッターにおける高橋源一郎氏の「読まれるべき詩」のパクリです。でもさぁ、この時代においてオリジナリティとかじゃないでしょ、剽窃で積み上げられているからって原典辿って何が面白いの?
とはいえ、もちろん原典を読む楽しさも満開ですよ。それはぜんぜん違う体験。
⑤素晴らしいものは素晴らしい。古典だろうとラノベだろうと。巨匠であろうと商業デザインであろうと。権威とお金が対立するとかドロドロであるとかいうつまらん議論をやめて、うろこばりばりの光ったものを涙のようにこぼしながら見てみる。そして感じた上で伝達する。もっとも幸福な手段が褒めることで、無論いいと思わないものを褒めることなどできません。でもいいと思わないものをわざわざゴーグルはめて探す人生など、嫌じゃ。
⑥結局言葉であって。愛してる、という言葉を発する自分を覗き込んでみるとそこには空洞しかなかった。だから、愛している、などと魍魎な言葉を乱用してはならないと痛感した若かりし日を経て、あえて愛していると言ってみたとき、本当に、真実、愛しているかどうかではなく、愛という言葉の真理ではなく、その言葉を発することによって起こる現象を愛しているのだと知った。・・・という、内田樹氏の本は沢山読んだのでどこからの引用かはっきりできませんし、誤読があるかもしれません。ただ、言葉の限界や不自由さを憂いて見せるのは、一瞬かっこいい、って思うときもあるけど、私はその言葉の無責任さ含め発してしまった共犯性、伝えてしまった故に担わなければならない罪、を背負うほうがかっこいいと思うのだった。
⑦ふわっ。まさかここまで来るとは思わなかったけれど、褒めるといえば元旦の事。土鍋買うため通過地点の八坂さんに成り行きで初詣しようかと、連れ合いと歩いてた時のこと。少し前を歩いていたおじさんが落とした手袋を、連れが小走りで拾って声かけたんだよね。人が落としたものを拾って届けるというの、色々数年体調とかしんどかったのに自然にできて、すごくいいところで。そういう要素が身近な人に沢山あるのね、と。人なんてわかりきれない。カテゴライズが想像力をしぼませるならきっぱり、反発する。年末会った友達もそうだけど、言葉で定義できない行為があるから、褒めたりなんやかんや、言葉はぐるっと本物になる。
⑧ふわわっ。限りなく予定調和的に見えるかもしれないけれどガチです。管理と教育ってすごい言葉を組み合わせたもんだなぁ、程度に思っていただけなのに、まぁ管理教育地域と認識される土地で生まれ育ったのでそれなりに思うところがないわけでもないけれど、適当につけたタイトルにねじ曲げて戻ってきた。このへんはさすがなので自分を褒めて面白い小説書こう。なぜなら、ステキだと思うことを褒めて、それがいかにステキかを伝えたい。伝える説得力を持つ意味でもいいもの書きたい。そんなことが目標であって、追い詰める教育、啓蒙、なんてさよならですよという話。ややこしくてすみません。いやべつに、ずっと前からさよならしてたのだけど。ゆとり教育とか難しい問題はあれだけど。ステキな事が沢山で、それは美醜の枠組みをさっと超える。
え、ていうか、これが振り返りと抱負ですか。
始まってるような終わってるような。ぐるぐる巡って繋がってるような。
2010年12月15日水曜日
まったくさっぱり、それそれそれそれ。
寒いので、ロシア。なんか釈然としないのでロシア。
そんなわけがあったのかなかったのか、ゴーゴリを読み返してみました寒い朝。
「鼻」ニコライ・ゴーゴリ 『外套・鼻』平井肇訳 岩波文庫 1965
太字筆者
なんか誰かの鼻がなくなったらしいというのはお伝えできますが、とびとび抜粋。
全体のお話が知りたいという向きには、読みやすい読みにくいは意見の分かれるところでしょうが、確か「青空文庫」にも出てるかと思います。
19世紀前半の帝政批判かも!とかいう難しい話は、難しい話が好きな方々におまかせします。
鼻が朝食のパンに挟まっていて、それはアイツのだとすぐにわかって・・・・・・
あらすじを説明するなどくだらないこともやめておきたい。
それにしても、落ち着きます。
四段目なんてあなた、まったくさっぱり、それそれそれそれ、ですよ。
私はわけがわからない。そしてまったくさっぱり、わけがわからないことに安堵するのです。
だって、この世の物事で、いったい、わけがわかっていることなどあるのか。
私は、わけわかったかんじ、に時折なる自分を蔑む。
私は、どうせわかんないから、と放棄する自分をバカにする。
私は、でもわかりたいから、と思索しようとする自分を揶揄する。
けれども。
「書いたところでまったく国益にならない」わけのわからなさが、わけがわからない私と私の世界を鏡に映すとき、その像だけは「ありえるときにはありえる」と思うのでした。
それはまるで、夢のよう。
うつつは夢で、夢こそまこと、などとあたりさわりのないレトリックで逃げるつもりはないけれど。
目に見えているものを見るのだとして、見えないものはどうするの。
見えないけれどあるのならどうするの、という事に四半世紀も悩んできたのです。
ごめんなさい嘘です、そんなに長くないかも。あと悩むとか大げさかも。
どう甘く見積もっても、夢を見続けて生きるわけにはいかない現状です。
起きなさい、目覚ましときなさいと言われてるわけです。
でもね、冬は寒いのです。
お布団が暖かいので、できればずっと眠っておいて夢を見ていたい時もあるのですよ。ふわっふわの毛布の中で。
そうして私は夢の中、あいかわらず、自分がここにいることさえもわけがわからない、という重度の中二病を再発しそうでドキドキしますが、目覚めたとき、夢のわけわからなさぶりに驚いて、蔑んで、バカにして、揶揄しながら、もう一回ちょっと考えてみようかとなるのです。
あるかないかなんてわかんない。
でもありえるときにはありえる。
そのようなあいまいなもののなかで、生きているのです。
言葉なんて擬制だよとかいう話は、聞き飽きました。
この全体的な擬制の中で生きている限りにおいて、何故ゆえ言葉だけが、「言葉では語りつくせない」という言葉を持っているのでしょうか。
原文から訳文にとんでる段階で、まったくさっぱり、それそれそれそれ。
こうなっちゃってる文字そのものに、私は惚けて、ちょっと楽しくなってきて、でも、それそれそれそれ、ではない言葉も捜してみたいと思うのです。
おお、やる気でてきた。
なんて言葉も揶揄しながら、受け入れとるわけです。
そんなわけがあったのかなかったのか、ゴーゴリを読み返してみました寒い朝。
《だが、もしかしたら思い違いかもしれないぞ。そうむやみに鼻がなくなる訳はないから》
《畜生め! なんという醜態だ!》彼はそう口走って、ペッと唾を吐いた。《せめて鼻の代わりに何かついているならまだしも、まるっきり何もないなんて……》
「―――だって、あなたは―――このわたくしの鼻ではありませんか!」
鼻はじっと少佐を眺めたが、その眉がやや気色ばんだ。
「何かのお間違いでしょう。僕はもとより僕自身です。―――」
が、何より奇怪で、何より不思議なのは、世の作者たちがこんなあられもない題材をよくも取りあげるということである。正直なところ、これはまったく不可解なことで、いわばちょうど……いや、どうしても、さっぱりわからない。第一こんなことを幾ら書いても、国家の利益には少しもならず、第二に……いや、第二にもやっぱり利益にならない。まったく何が何だか、さっぱりわたしにはわからない……。
だが、まあ、それはそうとして、それもこれも、いや場合によってはそれ以上のことも、もちろん、許すことができるとして……実際、不合理というものはどこにでもありがちなことだから―――だがそれにしても、よくよく考えて見ると、この事件全体には、実際、何かしらあるにはある。誰が何と言おうとも、こうした出来事は世の中にあり得るのだ―――稀にではあるが、あることはあり得るのである。
「鼻」ニコライ・ゴーゴリ 『外套・鼻』平井肇訳 岩波文庫 1965
太字筆者
なんか誰かの鼻がなくなったらしいというのはお伝えできますが、とびとび抜粋。
全体のお話が知りたいという向きには、読みやすい読みにくいは意見の分かれるところでしょうが、確か「青空文庫」にも出てるかと思います。
19世紀前半の帝政批判かも!とかいう難しい話は、難しい話が好きな方々におまかせします。
鼻が朝食のパンに挟まっていて、それはアイツのだとすぐにわかって・・・・・・
あらすじを説明するなどくだらないこともやめておきたい。
それにしても、落ち着きます。
四段目なんてあなた、まったくさっぱり、それそれそれそれ、ですよ。
私はわけがわからない。そしてまったくさっぱり、わけがわからないことに安堵するのです。
だって、この世の物事で、いったい、わけがわかっていることなどあるのか。
私は、わけわかったかんじ、に時折なる自分を蔑む。
私は、どうせわかんないから、と放棄する自分をバカにする。
私は、でもわかりたいから、と思索しようとする自分を揶揄する。
けれども。
「書いたところでまったく国益にならない」わけのわからなさが、わけがわからない私と私の世界を鏡に映すとき、その像だけは「ありえるときにはありえる」と思うのでした。
それはまるで、夢のよう。
うつつは夢で、夢こそまこと、などとあたりさわりのないレトリックで逃げるつもりはないけれど。
目に見えているものを見るのだとして、見えないものはどうするの。
見えないけれどあるのならどうするの、という事に四半世紀も悩んできたのです。
ごめんなさい嘘です、そんなに長くないかも。あと悩むとか大げさかも。
どう甘く見積もっても、夢を見続けて生きるわけにはいかない現状です。
起きなさい、目覚ましときなさいと言われてるわけです。
でもね、冬は寒いのです。
お布団が暖かいので、できればずっと眠っておいて夢を見ていたい時もあるのですよ。ふわっふわの毛布の中で。
そうして私は夢の中、あいかわらず、自分がここにいることさえもわけがわからない、という重度の中二病を再発しそうでドキドキしますが、目覚めたとき、夢のわけわからなさぶりに驚いて、蔑んで、バカにして、揶揄しながら、もう一回ちょっと考えてみようかとなるのです。
あるかないかなんてわかんない。
でもありえるときにはありえる。
そのようなあいまいなもののなかで、生きているのです。
言葉なんて擬制だよとかいう話は、聞き飽きました。
この全体的な擬制の中で生きている限りにおいて、何故ゆえ言葉だけが、「言葉では語りつくせない」という言葉を持っているのでしょうか。
原文から訳文にとんでる段階で、まったくさっぱり、それそれそれそれ。
こうなっちゃってる文字そのものに、私は惚けて、ちょっと楽しくなってきて、でも、それそれそれそれ、ではない言葉も捜してみたいと思うのです。
おお、やる気でてきた。
なんて言葉も揶揄しながら、受け入れとるわけです。
2010年12月6日月曜日
祭りのうらがわ、世界のうらがわ
あれほど、「ひらかれたヲタ」をめざそうね、と誓ったにもかかわらずです。
昨日の文学フリマに関して、私がとった行動には、色々反省すべき点があるのではないでしょうか。いや、総括すべしなのだ、そうなのだ。
仕事が終わってしばらく、「pocketパンチoh!」1969年12月号を読んで気持ちをスライドしていたのだけれど、ツィッターったら、もう。
ばんばん流れていくタイムラインに対し、ひたすらRTしまくったり、見ず知らずの参加者さんのつぶやきに返信したり、「おかんきたー!」などなど楽しそうな発言を登録したり、さりげに出身大学あかしたり、もうなにやってんだか、祭りで腕まくりして浴衣着崩しちゃうより恥ずかしい盛り上がり方、いん、ハッシュタグ、でした。
いやほんと、行ってないのに言葉と写真の羅列なのに臨場感があって、ツィッターありがとう!とさえつぶやきましたよ。おそらく「行けない」からよけいなのだと薄々わかってはいたのだけれども。
私は、「文フリRTレジスタンス」と化していたのです。(あえて抵抗しない)
しかしこれがツイッターの恐るべきところで、いざハッシュタグから出てみれば、フォローしてる方々のそれぞれの分野、生活、さまざまに、いつもと同じようで違うけれど、少なくともそんなに祭りではない日常がすすんでいるのでした。
そうです。
べつに、世界中が文学フリマをやっているわけではない。
という驚きの事実。
ああーびっくりした。中心なき世界の広大さですよ。
しかし考えるまでもなく、スペインでトマト投げつけて大騒ぎしている間に、こちらではモッツァレラチーズとトマト並べてオリーブオイルたらしてワインかたむけていたり、猛牛追いかけたり蹴り飛ばされたりしてる間に、鹿児島あたりでバスの車窓から静かな放牧牛を眺めていたりするわけです。
ハレとケに片足ずつ突っ込んだ状態から、しばし冷静さを取り戻しました。
そしておなじみ青井の本題ずれってってますよ話に進んでいきます。
けれどお断りさせてください、お詫びと共に。
このような脱線は必要なのです。俺の話を聞け2分だけでもいい、と剣さんも言っています。5分かもしれません。でもお話とは本来、複雑に入り組んでるものではありませんか(まったく論理になってません)。
さて、ひととき冷静さを取り戻した私は、いったいいつからこんな「祭り」な事に盛り上がれるようになったのだろうと思ったわけです。
学園祭とか文化祭とか「なんとか祭」と名の付くものにうろたえ、周囲が盛り上がるほどに冷めていったり、逆に孤軍奮闘して虚脱したり、祭りならずとも「球技大会」すら苦手で、学校の敷地内から逃げ出したりしていた私です。
今年の祇園祭だって、祭りで混むじゃんまいっちゃう仕事あるんですけど、とか言って交番を訪ね、交通規制ふくめた世間話をするという、なんだか斜にかまえた行為を二回もしていました。
けれど半面では阿波踊りを習得しているなど、あんまし人に言わないスキルもあり、徳島までマジでフェリーに乗って風の旅団のような集団行動をした経験もあります。
三田村邦彦が離婚後、つきものを落とすかのように踊り狂っていたのを記憶しています。
そして阿波踊りのリズムは、いまも私を高揚させるもののひとつでもあるわけです。
そう考えてみると、私の「祭り好き」ぐあいは年月を経て、阿波踊りの反復カタルシスのように、徐々に徐々に余分なものが浄化されてきたのかもしれません。みんなキラキラしてハイテンションな四月はけだるい、とかいう本質を凌駕するほどに。
でも文学フリマと阿波踊りは、ぜんぜん関係ないよね!
など頭ふってるうちに文学フリマ、トークイベントのダダ漏れ中継がはじまってしまい、再び靴下を脱いで、そっと片足を祭りに突っ込んでました。ハッシュタグ、という小さな世界に溺れながら。
ていうか、そんなんなら仕事終わってから行っちゃえばよかったじゃん!
世界の一部で、好きなものを持ち寄って、ときどき喧嘩しちゃったりしながらも、この先、を作っていこうという動きは、やっぱりステキです。来場者数が年々増えているようで、どうなっていくのかしら。
私なりに関わっていこう、ずっと好きなものに、などと思ったとき、目の前にあったのは「pocketパンチoh!」。
この本を買った古道具屋さんのご主人、40年前に好きだったものについて今も熱弁ふるうって結構すてきオヤジ、だよなぁとか。
オタクっていう言葉が出現してたぶん30年くらい。30年なんて宇宙レベルでは、今なんか目の前通った?程度でしょうが、一個人の人生にとってはかなりな時の配分です。今をとりまく新たな言葉の何が消え、何が残っていくのだろうなど、またもやズレまくりのことを考えていました。文学フリマという祭りの裏で。
さておき、破滅派売れ行き好調だったようでなによりです。
祭りの後、も続く日々、書いたり読んだりも続くのであろう。
昨日の文学フリマに関して、私がとった行動には、色々反省すべき点があるのではないでしょうか。いや、総括すべしなのだ、そうなのだ。
仕事が終わってしばらく、「pocketパンチoh!」1969年12月号を読んで気持ちをスライドしていたのだけれど、ツィッターったら、もう。
ばんばん流れていくタイムラインに対し、ひたすらRTしまくったり、見ず知らずの参加者さんのつぶやきに返信したり、「おかんきたー!」などなど楽しそうな発言を登録したり、さりげに出身大学あかしたり、もうなにやってんだか、祭りで腕まくりして浴衣着崩しちゃうより恥ずかしい盛り上がり方、いん、ハッシュタグ、でした。
いやほんと、行ってないのに言葉と写真の羅列なのに臨場感があって、ツィッターありがとう!とさえつぶやきましたよ。おそらく「行けない」からよけいなのだと薄々わかってはいたのだけれども。
私は、「文フリRTレジスタンス」と化していたのです。(あえて抵抗しない)
しかしこれがツイッターの恐るべきところで、いざハッシュタグから出てみれば、フォローしてる方々のそれぞれの分野、生活、さまざまに、いつもと同じようで違うけれど、少なくともそんなに祭りではない日常がすすんでいるのでした。
そうです。
べつに、世界中が文学フリマをやっているわけではない。
という驚きの事実。
ああーびっくりした。中心なき世界の広大さですよ。
しかし考えるまでもなく、スペインでトマト投げつけて大騒ぎしている間に、こちらではモッツァレラチーズとトマト並べてオリーブオイルたらしてワインかたむけていたり、猛牛追いかけたり蹴り飛ばされたりしてる間に、鹿児島あたりでバスの車窓から静かな放牧牛を眺めていたりするわけです。
ハレとケに片足ずつ突っ込んだ状態から、しばし冷静さを取り戻しました。
そしておなじみ青井の本題ずれってってますよ話に進んでいきます。
けれどお断りさせてください、お詫びと共に。
このような脱線は必要なのです。俺の話を聞け2分だけでもいい、と剣さんも言っています。5分かもしれません。でもお話とは本来、複雑に入り組んでるものではありませんか(まったく論理になってません)。
さて、ひととき冷静さを取り戻した私は、いったいいつからこんな「祭り」な事に盛り上がれるようになったのだろうと思ったわけです。
学園祭とか文化祭とか「なんとか祭」と名の付くものにうろたえ、周囲が盛り上がるほどに冷めていったり、逆に孤軍奮闘して虚脱したり、祭りならずとも「球技大会」すら苦手で、学校の敷地内から逃げ出したりしていた私です。
今年の祇園祭だって、祭りで混むじゃんまいっちゃう仕事あるんですけど、とか言って交番を訪ね、交通規制ふくめた世間話をするという、なんだか斜にかまえた行為を二回もしていました。
けれど半面では阿波踊りを習得しているなど、あんまし人に言わないスキルもあり、徳島までマジでフェリーに乗って風の旅団のような集団行動をした経験もあります。
三田村邦彦が離婚後、つきものを落とすかのように踊り狂っていたのを記憶しています。
そして阿波踊りのリズムは、いまも私を高揚させるもののひとつでもあるわけです。
そう考えてみると、私の「祭り好き」ぐあいは年月を経て、阿波踊りの反復カタルシスのように、徐々に徐々に余分なものが浄化されてきたのかもしれません。みんなキラキラしてハイテンションな四月はけだるい、とかいう本質を凌駕するほどに。
でも文学フリマと阿波踊りは、ぜんぜん関係ないよね!
など頭ふってるうちに文学フリマ、トークイベントのダダ漏れ中継がはじまってしまい、再び靴下を脱いで、そっと片足を祭りに突っ込んでました。ハッシュタグ、という小さな世界に溺れながら。
ていうか、そんなんなら仕事終わってから行っちゃえばよかったじゃん!
世界の一部で、好きなものを持ち寄って、ときどき喧嘩しちゃったりしながらも、この先、を作っていこうという動きは、やっぱりステキです。来場者数が年々増えているようで、どうなっていくのかしら。
私なりに関わっていこう、ずっと好きなものに、などと思ったとき、目の前にあったのは「pocketパンチoh!」。
この本を買った古道具屋さんのご主人、40年前に好きだったものについて今も熱弁ふるうって結構すてきオヤジ、だよなぁとか。
オタクっていう言葉が出現してたぶん30年くらい。30年なんて宇宙レベルでは、今なんか目の前通った?程度でしょうが、一個人の人生にとってはかなりな時の配分です。今をとりまく新たな言葉の何が消え、何が残っていくのだろうなど、またもやズレまくりのことを考えていました。文学フリマという祭りの裏で。
さておき、破滅派売れ行き好調だったようでなによりです。
祭りの後、も続く日々、書いたり読んだりも続くのであろう。
2010年11月30日火曜日
後ろ向きのまま疾走せ。
書いてて思ったんだけど、絵的に想像すると笑えますね。
後ろ向きに疾走は。すごく早かったりするとよけい。
がばいばあちゃんは「後ろ向きでは歩きにくい」といってたそうです。やずやかなんかのCMで。
歩きにくいなら走っちゃえば。
そんなわけで私の参加する『破滅派』紙雑誌版七号、です。

早めに情報公開するから早めに告知&宣伝をすべし、という建設的な戦略ということで、WEBおよびツイッターで急いで宣伝です。疾走宣伝。早すぎると光に近づくという原理、なんかありましたよね!
内容はこちら。
12月5日の文学フリマでまず販売です。
青井は新作短編小説「「妄想風俗店」」が掲載です。「」いん「」です。そんな細かいとここだわるよりもっとキャッチーな題名考えろぼけ、それと、自分のこと青井とか言うな。
最近、時々試してみたくなるのです。「エミってねー」とか自分で自分の名前いっちゃうかんじ。(エミにはまったく他意ありませんごめんなさい)「まゆまゆはぁー」とかくりかえしバージョンもやってみたい。
それは誰だい、私だい。そんなやりとりしてみたく、青井は、などと時々言うかも、言わないかも。
今回は当初のコンセプトが「温故知新」だったのに、「敗北宣言」になっちゃいました。
私もいちおう「おんこちしんおんこちしん」を頭に叩き込んで創作したつもりなのですが、ぜんぜん貢献できずごめんなさいです。でもどんな「敗北宣言」なのか楽しみですね。
あと楽しみといえば、破滅派テーマソング!です。CDもあわせて発売。
きょうび、CDです。(という高橋氏のエントリーにウケたので引用させていただきました。)
Rocket or Chiritoriと「叙情系漫画家」今日マチ子氏のスーパーコラボ企画。

歌詞を大々的に募集、そしてオープニングはあのなにをやってもハイセンスなアサミ・ラムジフスキー氏によるもので、青井は(やっちゃった)とっても楽しみです。
個人的にも注目している、高橋氏の山梨におけるコミューン建設記事。

それと青井は(おいまた)竹之内温さんの小説ファンなので、今回も並んで掲載していただく光栄!
色々リンクタグ満載でお届けしております、宣伝です。
でもそもそも破滅派ってなんなわけ? というそもそも派のあなた!どうしよう!
破滅派にとんでいただければ、まず幸いですが、コンテンツもりだくさん。そこで、またかよという批判覚悟で個人的に好きな記事をご紹介します。
破滅派放談「グッドバイにはまだ早い」
かくれ太宰ファン、なるものも存在する昨今、わかりますよ、太宰好きって言ったとたん「あれ」なかんじなわけでしょう。わかりますわかります。私は逃げも隠れもしないファンですが、酒飲みながら太宰について熱く語っちゃうこの放談、しかと読んでいただければ奥深さが伝わるかと。太宰読みの葛藤です。
ちなみに私が好きな太宰作品は!
「畜犬談」-私は犬に就いては自信がある。いつの日か、必ず喰いつかれるであろうという自信である。― 『きりぎりす』新潮文庫収録
「饗応夫人」来客におびえつつ泣きながらもひたすらもてなす夫人のおはなし。『女生徒』角川文庫収録
「人間失格」の印象は強烈、あと作家性とか文体がとか、いろいろいろあるでしょう。しかしあの新鮮さ!ウェットなウィット!何度も裏切られ感をもちつつ結局ずっと好きは好き。
と!破滅派宣伝が太宰宣伝になりそうなのでやめますが、この放談での両先生のような引用応戦、記憶機能を修理しないと私は参戦できないなぁと思いつつ、とっても面白いので読んでみてください。後半にいけばいくほど、感涙です。破滅派のなんたるかもわかるかも。
破滅派はわかった、じゃあそもそも文学フリマってなんなわけ? という、そもそもラディカル派のあなた!どうしよう!
これ、現行の文フリ運営のなかでどう変質し、進展してるのか検証していないのですが、とりあえず、そもそも、こういうことではじまりました、というのが「不良債権としての『文学』」。
そもそも満足度を高める事ができれば幸いです。
さて、そもそもはこのくらいでいいだろう、破滅派7号、よろしくお願い申し上げます。
宣伝なのに、長い。
追記:コメントに書くとリンク張れないんですね。
おんなじこと繰り返して限りなくあほっぽい。
この論文も面白いです。破滅派。
「「葉桜と魔笛」論」花藤義和
破滅派宣伝すると太宰を宣伝することになる。
ダブルスタンダードならぬ、ダブルオセオセ!
追記追記:今現在の文学フリマの理念はこちらです。
あわせて提示したほうが良いかな、と思ったのでリンクをば。
後ろ向きに疾走は。すごく早かったりするとよけい。
がばいばあちゃんは「後ろ向きでは歩きにくい」といってたそうです。やずやかなんかのCMで。
歩きにくいなら走っちゃえば。
そんなわけで私の参加する『破滅派』紙雑誌版七号、です。

早めに情報公開するから早めに告知&宣伝をすべし、という建設的な戦略ということで、WEBおよびツイッターで急いで宣伝です。疾走宣伝。早すぎると光に近づくという原理、なんかありましたよね!
内容はこちら。
12月5日の文学フリマでまず販売です。
青井は新作短編小説「「妄想風俗店」」が掲載です。「」いん「」です。そんな細かいとここだわるよりもっとキャッチーな題名考えろぼけ、それと、自分のこと青井とか言うな。
最近、時々試してみたくなるのです。「エミってねー」とか自分で自分の名前いっちゃうかんじ。(エミにはまったく他意ありませんごめんなさい)「まゆまゆはぁー」とかくりかえしバージョンもやってみたい。
それは誰だい、私だい。そんなやりとりしてみたく、青井は、などと時々言うかも、言わないかも。
今回は当初のコンセプトが「温故知新」だったのに、「敗北宣言」になっちゃいました。
私もいちおう「おんこちしんおんこちしん」を頭に叩き込んで創作したつもりなのですが、ぜんぜん貢献できずごめんなさいです。でもどんな「敗北宣言」なのか楽しみですね。
あと楽しみといえば、破滅派テーマソング!です。CDもあわせて発売。
きょうび、CDです。(という高橋氏のエントリーにウケたので引用させていただきました。)
Rocket or Chiritoriと「叙情系漫画家」今日マチ子氏のスーパーコラボ企画。

歌詞を大々的に募集、そしてオープニングはあのなにをやってもハイセンスなアサミ・ラムジフスキー氏によるもので、青井は(やっちゃった)とっても楽しみです。
個人的にも注目している、高橋氏の山梨におけるコミューン建設記事。

それと青井は(おいまた)竹之内温さんの小説ファンなので、今回も並んで掲載していただく光栄!
色々リンクタグ満載でお届けしております、宣伝です。
でもそもそも破滅派ってなんなわけ? というそもそも派のあなた!どうしよう!
破滅派にとんでいただければ、まず幸いですが、コンテンツもりだくさん。そこで、またかよという批判覚悟で個人的に好きな記事をご紹介します。
破滅派放談「グッドバイにはまだ早い」
かくれ太宰ファン、なるものも存在する昨今、わかりますよ、太宰好きって言ったとたん「あれ」なかんじなわけでしょう。わかりますわかります。私は逃げも隠れもしないファンですが、酒飲みながら太宰について熱く語っちゃうこの放談、しかと読んでいただければ奥深さが伝わるかと。太宰読みの葛藤です。
ちなみに私が好きな太宰作品は!
「畜犬談」-私は犬に就いては自信がある。いつの日か、必ず喰いつかれるであろうという自信である。― 『きりぎりす』新潮文庫収録
「饗応夫人」来客におびえつつ泣きながらもひたすらもてなす夫人のおはなし。『女生徒』角川文庫収録
「人間失格」の印象は強烈、あと作家性とか文体がとか、いろいろいろあるでしょう。しかしあの新鮮さ!ウェットなウィット!何度も裏切られ感をもちつつ結局ずっと好きは好き。
と!破滅派宣伝が太宰宣伝になりそうなのでやめますが、この放談での両先生のような引用応戦、記憶機能を修理しないと私は参戦できないなぁと思いつつ、とっても面白いので読んでみてください。後半にいけばいくほど、感涙です。破滅派のなんたるかもわかるかも。
破滅派はわかった、じゃあそもそも文学フリマってなんなわけ? という、そもそもラディカル派のあなた!どうしよう!
これ、現行の文フリ運営のなかでどう変質し、進展してるのか検証していないのですが、とりあえず、そもそも、こういうことではじまりました、というのが「不良債権としての『文学』」。
そもそも満足度を高める事ができれば幸いです。
さて、そもそもはこのくらいでいいだろう、破滅派7号、よろしくお願い申し上げます。
宣伝なのに、長い。
追記:コメントに書くとリンク張れないんですね。
おんなじこと繰り返して限りなくあほっぽい。
この論文も面白いです。破滅派。
「「葉桜と魔笛」論」花藤義和
破滅派宣伝すると太宰を宣伝することになる。
ダブルスタンダードならぬ、ダブルオセオセ!
追記追記:今現在の文学フリマの理念はこちらです。
あわせて提示したほうが良いかな、と思ったのでリンクをば。
2010年11月24日水曜日
こびこびめるめる、17歳よ永遠に。

メルボルンに行っていました。ちょっと都合で。プライベート流出させたりするくせにメンドクサイとこのもの言い。
しかも美しい教会やお花の写真も沢山とったのに、このあんましかわいくないコアラをのせちゃうの。
突然ですがみなさん、コアラは媚びています。
爪鋭いです。きっと凶暴です。
どれくらい媚びているかを語ろうと思ったのだけれど書く前から論理崩壊している。ああ。
以前オーストラリアに行ったとき、私は17歳でした。
そんな旅行とか行きたくないし、それどころじゃないし、コアラとか超むかつくという女子高生であった。ような気がする。
でもシドニーのダウンタウン一人で歩いてそれなりに楽しく、ゲイカルチャーにはじめて触れたのもダウンタウンだった。ような気がする。
あんまし覚えてないのです、オーストラリアってつかみどころのない国だという記憶で。
ただ、どっかの動物園でコアラを抱っこして写真とったのは覚えているのでした。
コアラのぬいぐるみの上にコアラをのせて、私はコアラのぬいぐるみを抱く事で、結果的にコアラを抱いてますよ、という写真になるらしかった。意味がわからんくて。できた写真も二層式のコアラを持ってるかんじ、だったような気がする。ほんと意味がわからんくて。
ぐだぐだなコアラのぬいぐるみの上に横たわり、ぬいぐるみと同じくらい動かないコアラを持った私は微笑んで、なんだこいつ媚びてるのか、と思った。いや媚びてない、媚びるなどという人間的感情操作などできるはずがない、30秒くらいの間に私の脳内会議は破綻しました。
ぬいぐるみオン本体。そのように大切に扱われる動物に対して、嫉妬を感じていたのだろうか。
コアラの取り扱いは州で違うんだって。だから直接抱っこオッケイのところもあるんだって。
どっちでもいいわ!
なんやねん、コアラってなんやねん!と怒っていた17歳であった。ような気がする。
今回は野性のコアラとかいうのがすごい高い木の上にいるのを眺めたい人のために手配はしたけど。
やはりコアラに対する気持ちの整理はつかない。17歳のときのような怒りはないけれど、かわいい!ラブ!とは思えず、栄養の少ないユーカリだけを食べては寝、おなかがすいて起きたらまたユーカリ食べちゃって、でも力がでないから一日20時間くらい寝ちゃうことを運命づけられた生き物に対する気持ちの整理はつかないのだった。
たぶん媚びてないし、力でないだけでコアラに罪はないのであろう。でもなんだか複雑な気分になるのです。
じっさい減ってるわけで、そいで守られてて、減らした人たちに守られるという希少動物のせつなさとか、そういうのんもあるけれど、かわいいのかかわいくないのか、わかんないっていう単純な話かも。

しかしメルボルンまでわざわざ行って、コアラに対する気持ちを再確認していたわけではなく、このように美しい日暮れを海岸から見ていました。
ビーチ沿いのレストランで、窓の向こうが染まってく。
向かいのテーブルにいた子が逆光で見えなくなった。
「うわーきれい、なぁなぁ私、こんな空見るためにほぼ、生きてるって思うんだけど」
と、いろんな人に100回くらい繰り返している事を言う。はいはい、というリアクションなので一人で砂浜に行き、写真を撮った。
スキンヘッドの「自称フォトグラファー」のカナダ人にサイトアドレスを教えてもらったり写真撮ってもらったりしていろいろ話したので、同じことを言ってみた。
もちろん!そのために生きている!
ものすごい満面の笑みをかえされた。
ああもしかしたら、媚びているのはコアラではなく私なのかも。
私の中の17歳なのかも。
どれくらい17歳かっていうと、これくらい。
久保ミツロウ『モテキ』のドラマ化放映期間は終わり、テレビがないので観れなかったけれども、「ロックンロールは鳴りやまないっ」がフルコーラス流れた、と聞きました。満島ひかりちゃんが絶叫カラオケするシーンがあったと聞きました。
パソコンの音声が出るようになってやっとニコ動やYOUTUBE観れるようになったのだけど、以前観たこの子たちのいろんな切ない映像は覚えていて、それでもやっぱり、ほろっとしちゃったよ。
コアラに複雑な気持ちを抱き、夕日みては泣き、「神聖かまってちゃん」に感じる私の17歳をゆるして、媚びない方向でちゃんと残しておいてあげたいと思いました。
2010年11月11日木曜日
だめだめだめ、ぜんぜんだめ。
おおっと。久々に再開したと思ったら更新頻度の間が!
ものごとを突発的に充実させるとろくでもないことになっていくというのは、こんにちのロボット以外の習性だということをわかっている一部の方々に、特殊な方面のご心配をおかけしてしまいそうだけれど、大丈夫、ちょびっと酔ってます。これで安心ひと安心。
あのね、大岡昇平『花影』。これさぁ。はなかげ、だと思ってたら、かえい、なんだって。
私いつも、この手の音訓にしてやられます。実は、はなかげ、のほうがいいと思ってるのに。かえい、と口に出しながら、心で、はなかげはなかげ言っておこう。
そんなことはどうでもよく、ある時代のなんらかの女性(なんだよそれ)のことを調べていて見つけたのが、坂本睦子。ウィキだとコレ
別のサイトだとこんなんも。
まぁキレイな人だったのだろう。魅力的だったのだろう。でも、この人をモデルにしたとされる『花影』の主人公、葉子は、はっきりいって、まちがっちゃった人です。
読んでいて、まず頭に浮かんだのが、吉野朔美『恋愛的瞬間』の二巻。「秘密と嘘」に出てくる、心理学者にも手に負えない女子学生と文学部教授の、不倫。
「あなたは私のことを文学的感傷で愛している」
「肉体も魅力的だって知っているよ」
「私の不幸を愛している」
「君の不幸を望んだことなんかないよ」
「良心が痛むからよ。あなたは嘘をついていることを忘れているのね」
自分の不自由さに気づいていない。浮気をすることが、自由だと、思っている。
吉野朔美『恋愛的瞬間』小学館2002
女子学生はまちがっちゃてること知っている。でも葉子は何をまちがっちゃてるのか自分でよくわかってないのです。
まちがっちゃったというのは、沢山の遍歴を重ねたとか、不幸な最後を遂げたとか、そういうんではなく、しかも実際の坂本睦子の話をしているのではありません。
あくまで、小説『花影』の主人公、葉子、のこと。
坂本睦子は知らん人なので。モデルを想定してうんぬんというとき、あなたはその人を知っているのか会ったのかということを問えば、そうではない。なら、登場人物として素直に読もうではないか、どうですか。
直木三十五、菊池寛、小林秀雄、坂口安吾、河上徹太郎、大岡昇平とかとの関係、実際の坂本睦子に関しては色々書かれたものを読めばよい。大岡昇平が嫉妬や感傷や衝動をどう作品に昇華させたのかも、このさい、おいておく。
小説の主人公、葉子がまちがっちゃってるのはね、あのね、この小説の登場人物、高島とか言う人との関係。(この人が誰を想定してるのかももちろん、おいておく)
高島と葉子という女給との関係はいわゆる男女のものではない。肉体関係もなく、葉子が沢山の男に求愛されるさまを高島は全部知っている。それはいい、まあいい。しかし、この高島という男、完全に、葉子のことを読み間違えている。
ほだされやすく男性に愛されやすい葉子に「女給でいるしか道がない」的なことを言うんですよね、こいつは。
高島は骨董品の目利きなんかをしていて一時期はぶりが良かったのだけれど、そういう時期に出会って、葉子の庇護者的存在なのだけれど、この人に人生の指南や信頼を置いていたところが、葉子ちゃんのまちがいだし、おちぶれた高島が葉子への見方を変えないところもまちがい。
あのさ、葉子という女は、実は、もっとも夜の世界に向いていない女なのです。
はっきりしとくためにいうけれど、そのへんで私とおんなじ。
私は今まで二度、いわゆるホステスチックなことをしてみたことがある。一度は大学のレポート書くための一日体験入店。もう一回は民話伝承を収集するために滞在した石垣島での酒場。どっちも銀座だの、新地だのとは違う、特殊な状況だったし、そういうとこではできひんと思った。あの世界で強く生きていける女性の多くは、とっても地に足がついているのです。お金をもうけること、自分の足で立つこと、嘘も方便も自分の責任で引き受けられる事。悲しみを悲しみながら反発できる事。かっこいい女性たちなのです。男を喜ばす、という商売で自分を貶めない、男以上に漢なぶぶんがあるか、すでに10人くらい子供産んでるよ、に等しい気概がなければ、お金と虚栄と擬似恋愛の世界に飲み込まれてしまう。褒めて楽しませて喜ばして欲しい男の人を抱擁しつつ、彼らの自尊心すら守ってあげる、子育てと介護に通じるような感情労働なのです。
私のことを言ったのでついでに断言すれば、私のようなヘタレの泣き笑い顔ではつとまりません。
夜の世界のしろうとが、夜の世界につかる事などめっそうもない。
このへんのことを高島はわかってない。
ふわふわふわふわしていて、身の置きどころがなく、線の細い葉子という女性が、そんなことして壊れないわけがない。寂しがりの甘ったれの葉子が、ちょっと男を喜ばせられるからって、女給でいるべき、などという短絡をするこの男は、本当にしょうもない。葉子は世界においていつも居場所を探しているような、生き人形のような女です。喜ばせるのはわかってほしいから、受け止めて欲しいからなのであって、一人で生きられる女じゃない。そんな女が求愛の真ん中に放り込まれたら、体も心も自分から手放してしまうのだ。その程度のこともわからん審美眼の持ち主高島を信頼し、おちぶれてなお身の回りの世話をしていた葉子。一番慰安されていたのは高島だったのだよ。
不幸、というのはもちろん文学的です。吉野朔美の女子学生はもう少し達観していて、でも自分の不幸に耐えられないから、まるで自分を切り刻むように、文学的ダンディズムのミューズとして不幸を偏愛される関係を、受け入れる。でもかしこい女の子であった。一緒にいるときからその不毛さ、文学者の求める嘘の甘さと身勝手さ(しかもはてしなく前時代的)を、悲しい目で見てる。いつか終わる。もっとも悲惨な終わらせ方をするべきか、何も伝えず静かに終わるのか。彼女自身のある種の文学的不幸と、天秤にかけながら関係性を少しの間継続させている。
これは女子学生が、葉子よりもあとの時代の女の子、だからかも、しれない。根っこの感受性は近しいのかもしれない。しかし、否定の言葉を口にできるだけ、女子学生のほうが強い。女の子が人形ではなく言葉を持った時代において女子学生は時々、教授を言葉によって怒らせる事もできたのだ。葉子はなにも言わない。黙ってなげやりに微笑む。
でも、『花影』の冒頭、これは良かった。
「葉子は最初から男のいうことを、聞いていなかったのかもしれない」
『花影』大岡昇平 講談社文芸文庫 2006
聞けよ!お前も!しかし面白くなかったんだろうね、言えなかっただけで。
身の回りをきれいに整え、繕いものをし、来客のために美味しい食べ物を用意し、喜ばせることのできた葉子ちゃん。高島とかいう男は気がつかんかったのか。
葉子が向いているのは夜の世界ではなく、誰かに徹底的に愛され、肯定され、守られ守り、生活の微々たるものごとを構築していくために、のどかな微笑を微笑む事。時代が時代だから、それが妻であり母でありということになるのかもしれんけれど、お金を介さない晩酌をかたむけるために笑って、日々の生活の中でその繊細な機転をフル活用し、それを楽しんでくれる男の子のパートナーになることが、葉子ちゃんの幸せなのだと指南すべきだったのだ、アホめが。
繊細さの襞を楽しめるディレッタントさを自分以外の人間に向ける目を持ち合わせていない高島と、ステレオタイプなデレッタント(間違ってないよ、デレッタントだよ)に溺れる男たちの間で、結局葉子は、孤独だったのだ。
男と女の文化の楽しみ方が不公平だった時代、だからかもしれんし、私はフェミニストではないし、葉子ちゃんは男の子を好きだったのに、なんか最後にはなにもかも憎たらしく思っちゃうなんて、さみしい。
かわいく、たのしく、結び合うための、おりこうなやり方、それって男の子の女の子、女の子の男の子にある、という意味で私はフェミとはちがうアプローチをとる。しかし言葉でやりあうとき、その言葉はまだ開発されていないから、日常のありきたりの出来事から発明しているのでございます。
さて、話がぶっとびます。
この『花影』講談社文芸文庫ですが、解説が小谷野敦、です。私はこういう戦う思想家が好きです。中島義道とか。ないってーと思う主張にぶち当たる反面、そうだよな、があり、そうだよな感が強いから。アカデミックな取り繕いをしないので、共感が強烈なのです。
その解説、大岡昇平が芸術院会員を辞退したときのいきさつを結びにしております。
「むろんそこには、戦死した兵たちへの鎮魂と贖罪、そして責任をとらない者たちへの怒りが込められていた。青山も白州も小林秀雄も、美の審判者に過ぎず、その怒りを共有する人々ではなかった。政治や社会に目を閉ざし、漠然とした日本的美の世界を描いて読者を幻惑する人たちだった。」前同 解説 小谷野敦
大岡のほかの歴史小説には正直あまり興味がなく、この一人の女性を書いたものからしか彼の創作を知る由もないが、小谷野氏の度胸ある解説から考えるには、もし大岡の姿勢がこのようであるならば、『花影』の主人公、葉子に託して表現したかったものは、一人の女性に対する執着や死に対する感傷(それはぜったいあったと思う)以上に、文学や芸術や美、それにもとづく欲望や名誉、ということどもの間で翻弄される、どうしたってどうにもなんない、すくいきれない人間の生きざま、の話だったのではないでしょうか、どうでしょうか。
と書いていて、はたして私自身モデルと登場人物をどれだけ区別して読んでるのか疑問が出てきちゃった。
だってやっぱり舞姫のモデルが誰だったとか、気になるもんねぇ。
舞姫のヒロインモデル特定に新証拠。誰だよ!と思いつつも。
坂本睦子に関しても、きっともうちょい調べちゃう。
さて、もう一回り飛ばさせていただいて、戦う思想家、内田樹氏。ブックマークに貼ってますがコラムが面白いのに発見しにくいので、改めてご案内しておきます。
内田樹Simple man simple dream
これ、必読。なんだけどなんだけど、冒頭から逸脱しまくり。自由自在ですな、おい。
ものごとを突発的に充実させるとろくでもないことになっていくというのは、こんにちのロボット以外の習性だということをわかっている一部の方々に、特殊な方面のご心配をおかけしてしまいそうだけれど、大丈夫、ちょびっと酔ってます。これで安心ひと安心。
あのね、大岡昇平『花影』。これさぁ。はなかげ、だと思ってたら、かえい、なんだって。
私いつも、この手の音訓にしてやられます。実は、はなかげ、のほうがいいと思ってるのに。かえい、と口に出しながら、心で、はなかげはなかげ言っておこう。
そんなことはどうでもよく、ある時代のなんらかの女性(なんだよそれ)のことを調べていて見つけたのが、坂本睦子。ウィキだとコレ
別のサイトだとこんなんも。
まぁキレイな人だったのだろう。魅力的だったのだろう。でも、この人をモデルにしたとされる『花影』の主人公、葉子は、はっきりいって、まちがっちゃった人です。
読んでいて、まず頭に浮かんだのが、吉野朔美『恋愛的瞬間』の二巻。「秘密と嘘」に出てくる、心理学者にも手に負えない女子学生と文学部教授の、不倫。
「あなたは私のことを文学的感傷で愛している」
「肉体も魅力的だって知っているよ」
「私の不幸を愛している」
「君の不幸を望んだことなんかないよ」
「良心が痛むからよ。あなたは嘘をついていることを忘れているのね」
自分の不自由さに気づいていない。浮気をすることが、自由だと、思っている。
吉野朔美『恋愛的瞬間』小学館2002
女子学生はまちがっちゃてること知っている。でも葉子は何をまちがっちゃてるのか自分でよくわかってないのです。
まちがっちゃったというのは、沢山の遍歴を重ねたとか、不幸な最後を遂げたとか、そういうんではなく、しかも実際の坂本睦子の話をしているのではありません。
あくまで、小説『花影』の主人公、葉子、のこと。
坂本睦子は知らん人なので。モデルを想定してうんぬんというとき、あなたはその人を知っているのか会ったのかということを問えば、そうではない。なら、登場人物として素直に読もうではないか、どうですか。
直木三十五、菊池寛、小林秀雄、坂口安吾、河上徹太郎、大岡昇平とかとの関係、実際の坂本睦子に関しては色々書かれたものを読めばよい。大岡昇平が嫉妬や感傷や衝動をどう作品に昇華させたのかも、このさい、おいておく。
小説の主人公、葉子がまちがっちゃってるのはね、あのね、この小説の登場人物、高島とか言う人との関係。(この人が誰を想定してるのかももちろん、おいておく)
高島と葉子という女給との関係はいわゆる男女のものではない。肉体関係もなく、葉子が沢山の男に求愛されるさまを高島は全部知っている。それはいい、まあいい。しかし、この高島という男、完全に、葉子のことを読み間違えている。
ほだされやすく男性に愛されやすい葉子に「女給でいるしか道がない」的なことを言うんですよね、こいつは。
高島は骨董品の目利きなんかをしていて一時期はぶりが良かったのだけれど、そういう時期に出会って、葉子の庇護者的存在なのだけれど、この人に人生の指南や信頼を置いていたところが、葉子ちゃんのまちがいだし、おちぶれた高島が葉子への見方を変えないところもまちがい。
あのさ、葉子という女は、実は、もっとも夜の世界に向いていない女なのです。
はっきりしとくためにいうけれど、そのへんで私とおんなじ。
私は今まで二度、いわゆるホステスチックなことをしてみたことがある。一度は大学のレポート書くための一日体験入店。もう一回は民話伝承を収集するために滞在した石垣島での酒場。どっちも銀座だの、新地だのとは違う、特殊な状況だったし、そういうとこではできひんと思った。あの世界で強く生きていける女性の多くは、とっても地に足がついているのです。お金をもうけること、自分の足で立つこと、嘘も方便も自分の責任で引き受けられる事。悲しみを悲しみながら反発できる事。かっこいい女性たちなのです。男を喜ばす、という商売で自分を貶めない、男以上に漢なぶぶんがあるか、すでに10人くらい子供産んでるよ、に等しい気概がなければ、お金と虚栄と擬似恋愛の世界に飲み込まれてしまう。褒めて楽しませて喜ばして欲しい男の人を抱擁しつつ、彼らの自尊心すら守ってあげる、子育てと介護に通じるような感情労働なのです。
私のことを言ったのでついでに断言すれば、私のようなヘタレの泣き笑い顔ではつとまりません。
夜の世界のしろうとが、夜の世界につかる事などめっそうもない。
このへんのことを高島はわかってない。
ふわふわふわふわしていて、身の置きどころがなく、線の細い葉子という女性が、そんなことして壊れないわけがない。寂しがりの甘ったれの葉子が、ちょっと男を喜ばせられるからって、女給でいるべき、などという短絡をするこの男は、本当にしょうもない。葉子は世界においていつも居場所を探しているような、生き人形のような女です。喜ばせるのはわかってほしいから、受け止めて欲しいからなのであって、一人で生きられる女じゃない。そんな女が求愛の真ん中に放り込まれたら、体も心も自分から手放してしまうのだ。その程度のこともわからん審美眼の持ち主高島を信頼し、おちぶれてなお身の回りの世話をしていた葉子。一番慰安されていたのは高島だったのだよ。
不幸、というのはもちろん文学的です。吉野朔美の女子学生はもう少し達観していて、でも自分の不幸に耐えられないから、まるで自分を切り刻むように、文学的ダンディズムのミューズとして不幸を偏愛される関係を、受け入れる。でもかしこい女の子であった。一緒にいるときからその不毛さ、文学者の求める嘘の甘さと身勝手さ(しかもはてしなく前時代的)を、悲しい目で見てる。いつか終わる。もっとも悲惨な終わらせ方をするべきか、何も伝えず静かに終わるのか。彼女自身のある種の文学的不幸と、天秤にかけながら関係性を少しの間継続させている。
これは女子学生が、葉子よりもあとの時代の女の子、だからかも、しれない。根っこの感受性は近しいのかもしれない。しかし、否定の言葉を口にできるだけ、女子学生のほうが強い。女の子が人形ではなく言葉を持った時代において女子学生は時々、教授を言葉によって怒らせる事もできたのだ。葉子はなにも言わない。黙ってなげやりに微笑む。
でも、『花影』の冒頭、これは良かった。
「葉子は最初から男のいうことを、聞いていなかったのかもしれない」
『花影』大岡昇平 講談社文芸文庫 2006
聞けよ!お前も!しかし面白くなかったんだろうね、言えなかっただけで。
身の回りをきれいに整え、繕いものをし、来客のために美味しい食べ物を用意し、喜ばせることのできた葉子ちゃん。高島とかいう男は気がつかんかったのか。
葉子が向いているのは夜の世界ではなく、誰かに徹底的に愛され、肯定され、守られ守り、生活の微々たるものごとを構築していくために、のどかな微笑を微笑む事。時代が時代だから、それが妻であり母でありということになるのかもしれんけれど、お金を介さない晩酌をかたむけるために笑って、日々の生活の中でその繊細な機転をフル活用し、それを楽しんでくれる男の子のパートナーになることが、葉子ちゃんの幸せなのだと指南すべきだったのだ、アホめが。
繊細さの襞を楽しめるディレッタントさを自分以外の人間に向ける目を持ち合わせていない高島と、ステレオタイプなデレッタント(間違ってないよ、デレッタントだよ)に溺れる男たちの間で、結局葉子は、孤独だったのだ。
男と女の文化の楽しみ方が不公平だった時代、だからかもしれんし、私はフェミニストではないし、葉子ちゃんは男の子を好きだったのに、なんか最後にはなにもかも憎たらしく思っちゃうなんて、さみしい。
かわいく、たのしく、結び合うための、おりこうなやり方、それって男の子の女の子、女の子の男の子にある、という意味で私はフェミとはちがうアプローチをとる。しかし言葉でやりあうとき、その言葉はまだ開発されていないから、日常のありきたりの出来事から発明しているのでございます。
さて、話がぶっとびます。
この『花影』講談社文芸文庫ですが、解説が小谷野敦、です。私はこういう戦う思想家が好きです。中島義道とか。ないってーと思う主張にぶち当たる反面、そうだよな、があり、そうだよな感が強いから。アカデミックな取り繕いをしないので、共感が強烈なのです。
その解説、大岡昇平が芸術院会員を辞退したときのいきさつを結びにしております。
「むろんそこには、戦死した兵たちへの鎮魂と贖罪、そして責任をとらない者たちへの怒りが込められていた。青山も白州も小林秀雄も、美の審判者に過ぎず、その怒りを共有する人々ではなかった。政治や社会に目を閉ざし、漠然とした日本的美の世界を描いて読者を幻惑する人たちだった。」前同 解説 小谷野敦
大岡のほかの歴史小説には正直あまり興味がなく、この一人の女性を書いたものからしか彼の創作を知る由もないが、小谷野氏の度胸ある解説から考えるには、もし大岡の姿勢がこのようであるならば、『花影』の主人公、葉子に託して表現したかったものは、一人の女性に対する執着や死に対する感傷(それはぜったいあったと思う)以上に、文学や芸術や美、それにもとづく欲望や名誉、ということどもの間で翻弄される、どうしたってどうにもなんない、すくいきれない人間の生きざま、の話だったのではないでしょうか、どうでしょうか。
と書いていて、はたして私自身モデルと登場人物をどれだけ区別して読んでるのか疑問が出てきちゃった。
だってやっぱり舞姫のモデルが誰だったとか、気になるもんねぇ。
舞姫のヒロインモデル特定に新証拠。誰だよ!と思いつつも。
坂本睦子に関しても、きっともうちょい調べちゃう。
さて、もう一回り飛ばさせていただいて、戦う思想家、内田樹氏。ブックマークに貼ってますがコラムが面白いのに発見しにくいので、改めてご案内しておきます。
内田樹Simple man simple dream
これ、必読。なんだけどなんだけど、冒頭から逸脱しまくり。自由自在ですな、おい。
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