「出産方面」

2009年11月9日月曜日

連載3と海外作品月間

文芸誌破滅派 連載小説
『喫茶エリザベート3』青井橘

もう三回目ですね。
この作品は100枚ちょいで完結です。

思えば2006年頃にふと小説を書いてみようと思い、以後驚くほどプライベートがばたばたしましたので、ていうかプライベートなど落ち着いたためしはないのですが、まあ実質一年半くらい書ける環境だったといえます。その間に書いたのが300枚が一作、150枚が一作、100枚程度が二作、という感じです。すぐ長くなっちゃう。で今は改めまして20枚完結を書き終えました。今日、さっき。仕事から帰ってから。

さて話し変わって読むほうですが、私は買った本を読み終えるまで次のを買わない、という枷を自分にしいておりまして、買いたいんならこれ読めよ、という本がデスクに積んであります。しかしどうもこのところ、ていうか一年くらい本が頭に入ってこず、ツンドル状態でした。でも読みました。


 『キャンディ』テリィ・サザーン
 これは本のジャケ買いというか、ネット上で見つからなかったのだけど写真とは違う表紙で全面どぎついピンク、キッチュなまなざしはそのまんまだけどサイケさアップ!の、角川1970年版を古本屋で50円で見つけたのでした。映画はみたことないんやけど、メイソン・ホッフェンバーグというハンバーグみたいな脚本家の別名です。ハンバーグはたしか『イージー・ライダー』とか『博士の異常な愛情』とかの脚本書いてた人です。
 内容はキャンディってゆーカワユイ女の子が大学教授とか医者とか教祖様から狙われるのを回避しつつ、コメディアンド風刺な、あ、やっぱりどこかアメリカン・ニューシネマ的な感じです。偉そうな事言ってとにかくヤリタイおっさんの姿が哀れです。
「ぼくはマッチョじゃないよぅ」といいながらその実コテコテマッチョなおっさんが多い日本でも通じる風刺。風刺とか皮肉とかあんま好きやないけども、そいつらに読ませたい快感と不快感が混じる読後感。出版後は発禁になったみたいだけど、なんでか私発禁ものによく当たる。


『ずっとお城で暮らしてる』シャーリー・ジャクソン

こちらはまだ途中まで。だもんで、内容ご案内と帯から一言。
「私はメアリ・キャサリン・ブラックウッド……悪意に満ちた外界に背を向け、空想が彩る閉じた世界で過ごす幸せな日々。しかし従兄弟チャールズの来訪が、美しく病んだ世界に大きな変化をもたらそうとしていた」
「すべての善人に読まれるべき、本の形をした怪物である。――桜庭一樹」
さすがは箱庭の女王、桜庭一樹さんの言葉すごいですね。

純真無垢天真爛漫なヒップ少女がマッチョおやじの刃の間を駆け抜ける VS 閉じこもり妄想乙女

ある意味対極の二つです。翻訳モノは頭に入ってこないときはほんと入ってこないし、海外作品の救われなさ、残酷さは、日本の小説とはまた質がちがうんだけども。

2009年11月2日月曜日

水をとりにいく。


野菜をあげたり鍋を共につついたりしている近所のともだちんちには、美味しい水があって、われわれの家からチャリで5分くらいのところにある神社から汲んできているのだと教えてもらった。
さっそく行こうと思っていたのに、でかいペットボトルというものが家になく、でかい空きペットボトルをとっておき、このたび水を汲みに行った。


われわれの家ではあまり生水を飲む事がなく、水を買うこともあんまりないし、なんかろ過する容器みたいなのもなく、たいがい自家製のどくだみ茶を飲んでいるのだけれども、友達が遊びに来てみんなで焼酎を飲んでるとき、割り水、と言われ、ああそうかそりゃ美味しい水で割りたいわ、と思ったものだった。


こんな近くの、しかも商店街からすぐのところから水を取ってこられるとは、それを知らなかったとは!
わりと有名なのか、訪れたときおっさんが先に汲んでいて、待って、われわれも。そしたら汲んでる間におばちゃんが来て、待たせてしまった。順番を変わってからおばちゃんに話しかけてみると、「ここと、もういっこ、あるんだけどね」と教えてくれたその場所が、家から歩いて一分くらいのとこにあるという耳寄り情報。帰りに確認してみると、そちらには「地下水出ました」と書いてあり、この神社のような竹からちょろちょろではなく、蛇口のある水道が設置してあった。水の落ちる場所にはくぼんだ岩があって、金魚が泳いでいた。「どうせ自分が水汲み係りにされるんやろう」という図星の嫌味を相棒に言われつつ、今度はこちらでも水を取ってみようね、と。



帰ってからごくごく飲んだ。神社の水は冷えていてとても美味しかった。教えてくれた友人、それとあらたに教えてくれたおばちゃん、ありがとう。

2009年10月26日月曜日

残ったもの

相棒が旅費をプレゼントしてくれた。
なんか元気がないらしいので、私がだよ、元気づけるために出来ることをと。出来る事をいつも探す人。私らはいつも探しあい物々交換をし、分け合いっこをするのだ。ありがとう!
そんなわけで愛媛県の新居浜から山に入ったところにある、別子銅山という場所に行ってきた。
まだ暖かい日もあるので、観光地と言えば和歌山の白浜あたりにしようかと迷ったけれども、なんかこう、古いような寂しげなような、それでいて大地のパワーが感じられる場所と思って。
採鉱全盛期にはばりばり栄えていて、抗休までは一つの町として同じ産業を担う人々の共同体だった場所。




標高750だか800だかの山奥。




古くて大きな木 枯れかけてるのに別の枝がはえてきてた。


ななかまど ああ七竈 ななかまど

小学校も病院も社宅も娯楽場もなんでもあったらしいっす。資料館のような場所にかつての子供達、いかにもかつてな感じのノースリーブに半ズボン、歯がこれから生えてくるよという抜けた笑顔のモノクロ写真が印象に残った。明治20年頃から昭和43年まで銅山は機能していたそう。いつごろの写真で、今あの子供達は何歳で、どこで何をしているのかはわからないけれど。

2009年10月7日水曜日

じねんじょと反射神経



暗がりに轟音で目を閉じ、そんな自分に酔うひまがあるなら、風の音をきけばいい。



聞こえるものは聞こえるし、聞こえないものは聞こえない。われわれはべつの耳。



けれど十年、二十年、同じ思いを求めてきた友は、やはり美しい。



じねんはいつも味方であり、なにごともおおげさに、たいしたことないくせに、と教える嫌な友達。



なあなあ、それでもやっぱり愛をこめて。そんな頑丈でもないからやっぱりいっこいっこ。



わたしはこれらのものから生まれてきた。スピリチャルでもなんでもない、ただの事実。



だから流れるなら、流れるのだ。



そしていく。かえるのではない、そこにいく。


わたしはわたしのじねんを愛するように、君のじねんを愛する。
じねんを忘れてしまったら、汚れちまったら、洗おう。
これらの場所にも沢山の音がある。
ちくたくちくたく、と聞こえない音を聞こえるふりの必要もない。


まだ秋のしのびよりが、こんにちほどではなかった過日。
山奥で撮影をした。
私は滝のてっぺんから滝つぼに落ちるという経験をこの日、はじめてしたのだが、じゃぼんとおちて、鼻がつんとして、次の瞬間写真家に「今の撮りました?」と。心優しき写真家は、心配してくれてシャッターどころではなく。

たいした怪我もなく。

ああ常日ごろからなんやかんや運動で、反射神経きたえてて良かったな。

私はいっつもはたから見たら大怪我かしんでるんっちゃうんという事故にあっても、何故かかろうじて、生きてしまうのである。

2009年9月30日水曜日

連載二回目 長い一日

破滅的破滅派、連載第二回目
『喫茶エリザベート』(2)

開始しております。

それはいいんだけど、

ある程度生きると一日が一ヶ月が一年がはやい、とか言うはずだけども、
リア王、というのがリアルが充実してることとは知らなかった。
知らないことだらけで一日の長い青井橘。

できれば、美しいことだけ知って生きていきたかった、
最近、汚れ、を知った幼き青井橘。

そんな感じでよろしく。

2009年9月20日日曜日

やまだないとのうしろめたさにうしろめたい。









少し前に、やまだないと『家族生活』を読みました。で最近もう一回読みました。

好きな漫画家だけど、やまだないと、と、山本直樹、は移動中とか外のどこかとかいう場所で読めない漫画家です。景色とか、音とか、人の流れとか、とにかく周囲が動く気配の中で読めない。何もない、真空のような場所、そんな場所が世界にあるのならばだけれど、そんな場所で読みたい二人です。
覚醒しているけれど気が付かないふりをしている、という意味で似ているのに、その「ふり」の方向が違う。
山本直樹は覚醒している。醒めているあの目は、怖い。山本直樹の描く目に、私はぞっとします。登場人物たちの置かれた世界、この場合特に『ビリーバーズ』と『安住の地』で描かれている世界の事を言うんだけれども、すっと冷たい乾いた目であの世界の中に存在できる、しているという事が怖いのか。時々見せる目の暴力が怖いのか。いや怖いのではない、やるせないのか。
信じる、ということの怖い部分が細い線で描かれた目に、常に安住していて、時々それがはっとするほど強い残酷さでもって、睨んでくるのです。一瞬の視線が出ると、ほんとうはこいつら、何も信じてなどいないのかもしれん、と思います。信じてない事まで覚醒して、その上で「ふり」をしているのではないかと思うのです。で、「ふり」をしている自分を封印すると、人は、あんな目になるんではないかと。

けれど、やまだないとの「気が付かないふり」は、ふりをしていることに自覚的だから、もう少し悲しい。
「気が付かないふり」というより「知らないふり」に近いのかも。

だってほらお二人とも……求めたものが同じじゃない。家族って名前の共犯者……
                                      『家族生活』

『家族生活』は、血の繋がった家族と結べなかった者が、血の繋がっていない者と切り離せない関係を結ぶという話で、その意味において登場人物のほとんどが、何らかの形で「共犯者」です。ある者がある者と共犯でありたいと望み、ドッキングしたり、あるいは拒まれたり。
上の言葉を出した人物は、拒まれて追いかけており、逃げている三人は「逃げている」共犯。
その主犯格とも言える人物を追いかけていた、ある意味「敵」の言った言葉なんだけれども、この「敵」も、追うという補完を行っているのかも知らん。
そして赤ん坊の時に連れ去られ、選択肢なきままに二人の男の間に持ち込まれた少女、ヒナ12歳は自覚的に「知らないふり」をしている。彼女は気が付いたときから共犯の真ん中で、血の繋がりより、その共犯関係を選択する事で、さらに共犯して、「知らないふり」を続けていく。男二人はたぶんヒナの「知らないふり」を「知らないふり」していて、その点で、ヒナの存在に依存しているように思います。
私は、ちのつながり、がある者とは共犯できないと決定的に思っているし、それは思うとか考えるとかいう問題を超越して、すでに感覚的なものになっています。出来事の積み重ねがあったとかいう家族史は、歴史やから二倍重ねも書き替えも可能なのかもしれんけど、重ねていくことで変化も可能なのかもしれんけど、感覚的な生々しさは、冷凍しても脱臭しても変化しないのではないか。
私はこの作品、とても共感しつつ、苦しくて、それだけでなく「つまらない」と思った。
がつんと引っかかる部分があるものについてのみ、「つまらない」と思い得るのだとも知りました。そういった意味でも、そんな物語を作れるやまだないとが、すごいとも思いました。
ヒナのように、「知らないふりをしている」を自分に課して、それで「今」を保とうとすることは、言語道断でがつんときて、痛くって、涙が出てくる。
でもだけどさ、その「知らないふり」を破壊するには、一度「知っている」と言ってしまうしか、ないんやと思う。知っていると言ったそのときから始まる、無知、というものとの出会いを逃してしまう限り、とどまり続けなくてはならないです。それは、どうなんやろうか。
私はなんとなく、少し前まで、そういうとどまり方を、美しいと思っていました。というか、とどまるしかできない事を、擁護したかったのだと思います。けれども、世界はもっと残酷に、もっと別の美しさを持って広がっていて、無限の無知を受け入れるしか生きていけない時が来る。ヒナ達三人の「家族生活」は、残酷なものの上に危うさを持って保たれていて、ヒナはその事を知っているけれどその先は知らない。ラストシーン以降物語が進んでいくのだとしたら、壊れていくんやろう。
かつては、そうして壊れていくまでの物語の美しさを美しいと思っていたけれども、私という微々たる個体の中でも、「思う」や「考える」は変化していくのです。
この物語を切なく美しく享受できない私は、「知らないふり」をして「共犯者」を求めたその先を生きていくしかないのだと思います。確かに血の繋がりの中には持ち込めない物語があり、それは血の濃さが邪魔をしている。でも血の繋がらない者と血で繋がることも出来ない。結局血で繋がることの出来ない他者、と共犯者にもなれず、けれども共に生きていく事の難しさを「知らないふり」もせずやっていくことのおっくうさや、寂しさ、大切さを思えば、血は薄まっていくような気がするのです。水も濃くなっていくように思うのです。
家族という共犯者を求めた彼ら彼女らが、逆に血の濃さに囚われてしまうのだとしたら、一度「うちら、ちー繋がってないし」ってとこから初めたい。

要するに私の「つまらない」はただ私が今の自分の価値基準で価値判断をしているだけなんですね。評論、批評をしたいんでなければ。
物語を享受するってことは、そういう部分が多くあり、共感というものを得るだけではない「つまらない」は大きな存在だと思いました。

そして今何度も読み返している、やまだないと『西荻夫婦』は、その他人である事に関する圧倒的な寂しさが描かれていて、私はうしろめたい。「つまらなく」ない。何度も何度も何度も、つまらなく、ない。
うしろめたい。自分のために時間を費やす、ということのうしろめたさ。
もう少し読み直したいと思います。

2009年9月9日水曜日

写と交わる、真はどこ。


どこまでいくのん。




どっこもいかない。
ここにいる。


あの時のあなたはもういない。


生まれたら、ここにいたわれわれ。

時と場所と
もちもの、がかわっても、
かんじかた、がかわっても
かわらないわたしといういれもの。

ここにいたわれわれの、ただのひとつ。