「出産方面」: まったくさっぱり、それそれそれそれ。

2010年12月15日水曜日

まったくさっぱり、それそれそれそれ。

寒いので、ロシア。なんか釈然としないのでロシア。
そんなわけがあったのかなかったのか、ゴーゴリを読み返してみました寒い朝。

《だが、もしかしたら思い違いかもしれないぞ。そうむやみに鼻がなくなる訳はないから

《畜生め! なんという醜態だ!》彼はそう口走って、ペッと唾を吐いた。《せめて鼻の代わりに何かついているならまだしも、まるっきり何もないなんて……》

「―――だって、あなたは―――このわたくしの鼻ではありませんか!」
 鼻はじっと少佐を眺めたが、その眉がやや気色ばんだ。
「何かのお間違いでしょう。僕はもとより僕自身です。―――」

が、何より奇怪で、何より不思議なのは、世の作者たちがこんなあられもない題材をよくも取りあげるということである。正直なところ、これはまったく不可解なことで、いわばちょうど……いや、どうしても、さっぱりわからない。第一こんなことを幾ら書いても、国家の利益には少しもならず、第二に……いや、第二にもやっぱり利益にならない。まったく何が何だか、さっぱりわたしにはわからない……。
 だが、まあ、それはそうとして、それもこれも、いや場合によってはそれ以上のことも、もちろん、許すことができるとして……実際、不合理というものはどこにでもありがちなことだから―――だがそれにしても、よくよく考えて見ると、この事件全体には、実際、何かしらあるにはある。誰が何と言おうとも、こうした出来事は世の中にあり得るのだ―――稀にではあるが、あることはあり得るのである

          「鼻」ニコライ・ゴーゴリ 『外套・鼻』平井肇訳 岩波文庫 1965
                                    太字筆者

なんか誰かの鼻がなくなったらしいというのはお伝えできますが、とびとび抜粋。
全体のお話が知りたいという向きには、読みやすい読みにくいは意見の分かれるところでしょうが、確か「青空文庫」にも出てるかと思います。

19世紀前半の帝政批判かも!とかいう難しい話は、難しい話が好きな方々におまかせします。
鼻が朝食のパンに挟まっていて、それはアイツのだとすぐにわかって・・・・・・
あらすじを説明するなどくだらないこともやめておきたい。

それにしても、落ち着きます。
四段目なんてあなた、まったくさっぱり、それそれそれそれ、ですよ。
私はわけがわからない。そしてまったくさっぱり、わけがわからないことに安堵するのです。
だって、この世の物事で、いったい、わけがわかっていることなどあるのか。

私は、わけわかったかんじ、に時折なる自分を蔑む。
私は、どうせわかんないから、と放棄する自分をバカにする。
私は、でもわかりたいから、と思索しようとする自分を揶揄する。

けれども。
「書いたところでまったく国益にならない」わけのわからなさが、わけがわからない私と私の世界を鏡に映すとき、その像だけは「ありえるときにはありえる」と思うのでした。

それはまるで、夢のよう。
うつつは夢で、夢こそまこと、などとあたりさわりのないレトリックで逃げるつもりはないけれど。
目に見えているものを見るのだとして、見えないものはどうするの。
見えないけれどあるのならどうするの、という事に四半世紀も悩んできたのです。
ごめんなさい嘘です、そんなに長くないかも。あと悩むとか大げさかも。

どう甘く見積もっても、夢を見続けて生きるわけにはいかない現状です。
起きなさい、目覚ましときなさいと言われてるわけです。

でもね、冬は寒いのです。
お布団が暖かいので、できればずっと眠っておいて夢を見ていたい時もあるのですよ。ふわっふわの毛布の中で。

そうして私は夢の中、あいかわらず、自分がここにいることさえもわけがわからない、という重度の中二病を再発しそうでドキドキしますが、目覚めたとき、夢のわけわからなさぶりに驚いて、蔑んで、バカにして、揶揄しながら、もう一回ちょっと考えてみようかとなるのです。

あるかないかなんてわかんない。
でもありえるときにはありえる。
そのようなあいまいなもののなかで、生きているのです。
言葉なんて擬制だよとかいう話は、聞き飽きました。
この全体的な擬制の中で生きている限りにおいて、何故ゆえ言葉だけが、「言葉では語りつくせない」という言葉を持っているのでしょうか。

原文から訳文にとんでる段階で、まったくさっぱり、それそれそれそれ。
こうなっちゃってる文字そのものに、私は惚けて、ちょっと楽しくなってきて、でも、それそれそれそれ、ではない言葉も捜してみたいと思うのです。

おお、やる気でてきた。
なんて言葉も揶揄しながら、受け入れとるわけです。

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