「出産方面」: 4月 2010

2010年4月26日月曜日

この葉、のおくりもの。

以前働いていた仕事先で、美術評論ぽい文章、を書く際に、上司から提示された要求が「これまでその絵なり立体なり音楽なり映像なり、に、触れたことのない人に伝える文章を」という事だった。

私は人に物事を説明するのがとても上手くいく時と、いかない時の差がはげしくて、プライベートな事にせよ、一般的な事象にせよ、強く思いこんでいなければ何も語れない、とどこかで思っていた。だから「今このこと」が嵐のようなときには語れずに、三年位してやっと、いったいそれが何だったのかを語るときがあります。でもそれはきっと、「あの時」の「ほんとう」からはかけ離れてしまっていて、人生の中での「あのとき」をなんとか着地させるためにみだりに言葉を費やしている感じがして、だから私はいつもどこかで嘘をついているなぁ、と、とてもとてもおこがましいけれど諦観のようなものがチクリと刺さっていた。同時に「ほんとう」というものがいったいどう「ほんとう」なんだろう、と考えたりもしていた。

言葉っていうのは、美しく、厄介で、怖くて、どこか言葉で語ること、説明する事に、懐疑とか限界を感じ、言葉では語れないものがあると痛感し、だから説明ではない表現を求めている部分がある、ように思う。表現が説明ではない事、ましてや説得やオルグなどでは決してありえない事は、確かであり、だから豊かなんだとも思う。

でも、「触れたことのない人に伝える文章」といったふうに具体的に提示された時、私は自分がとても好きな美術作品の事をいくつか書いていて、私がそれを「好き」ということはずっと奥のほうに、底に漂っているけれども、やはりそれはその作品を見たことのない人、もっと言えば、見たことがあるにせよ少なくとも私ではないことは確かな誰か、を、誰かが具体的ではないままに、想定し、想像し、限界はあるけれどその誰かの心の想像力に少しでも触れるように、と試行錯誤して言葉を紡いだ。
それが良い文章だったのかは私が決めることではないし、その作品に興味を抱いてくれたのだったら本当に良かったし、何よりも、他者を想定して書くというやり方の難しさや必要性を教わった気がしている。
だから、そんな提示をしてくれた上司には、今でも感謝している。

今は沢山沢山、レビューや書評や感想があって、自分が直接触れることのできる限界を超えているけれども、そんな風に他者を想定して書かれたものに出会うと、何だか暖かく感じる。
私は自分があまり評論に向いていないな、と思う。だから評論というやり方でそういう文章を書くことはやめてしまったけれど、それでも私がこんな風に書いている、小さなブログ一つにしても、誰かに、何かを、言葉なのだけれども言葉以上の何かを、投げかけたり感じさせたりしているかもしれない。想像、というものはすることもされることも、本来とても優しくて、暖かいものだと思う。
それはものすごく特別な事でも稀有な事でも個性的なことでもなく、なにか人を感心させる価値があることでもなく、というかそれを決めるのは自分ではない、と繰り返してしまう。
何年か、書く言葉ではなく会話を重視して繰り返し繰り返し、しつこく語り合ってきて、伝わったり伝わらなかったり、それは宝箱のような時間だった。その全て、と言うのは欺瞞かも知れないけれど、やはりとても愛している。言葉を感覚と時間の流れに放り込んで、目の前にいる人達と沢山、その空気ごとを味わうような時間だったから。

その時間の中で書いてきた日記、ネット上で限られた友人や繋がりのある人に公開していた日記と、ノートに書きなぐっていた日記を読み返していると、「学び」という部分で論理的であろうとする分、奔放に無秩序に、感覚だけを享受し言葉を紡いでいたのだな、と改めて思った。私は自己批判的な性格が根っこで強いのだけれど、それは同時にナルシスティックでもあり、自己陶酔的でもあるということだ。そんなものだけの発露。それに対する醒めた自分の目、突っ込みを入れるもう一人の他人がいつも自分の中にいる、という。

そんな感覚と、上司から提示された種類の文章のありかた、そういう様々なことを思い返したり、「いまこの時」をそれによって照射したりしてみると、やはり私は書く言葉を、選ぼうとしたにもかかわらず、どこかで放棄していたように思う。
小説や創作はニュアンスの積み重ねでもあるけれど、論理の構築でもあって、言葉との蜜月的な関係を甘く甘く味わうだけではいられない。何より人に伝えようとすれば、自分を掘ってしまえば、すごく辛くなったりする。でもそれを「辛いですよ」と感覚的に言うことが、つまり、放棄のひとつなんだ、と思う。そんなのやっぱり、無責任だ。私は無責任だからしょうがない、といってみたところで、それでいい、ということじゃない。

今こういうふうに始めたブログは、…これは言うべき事じゃないのかもしれないけれど、すごく迷ったけれども、読んでくれている人に誠実でありたかったので、書くことにしました。
実は一人の人に向けて、伝えたかった、というのが一番最初の動機でした。
語っても語っても、どれだけ時間を共有しても、それでも伝えられなくて、他に方法を考え付かなかった。でも、それをこんな風な形で他の方たちにも読んでもらったり、それまで知らなかった方からメールを頂いたりするようなやり方でしてしまうことは、なんだか違うような気がしていました。

色々なことがある現実の生活と沿うような感じでずっと考えながらいて、やはり、違うな、と思います。その「違う」の半分くらいは、個人的な「伝えたい気持ち」を動機にしている、という事だけれども、それ以上に重要な「違う」はそれでもとった方法である、言葉を紡ぐ、という事に対する真摯さをどこかで放棄していた、という事です。

私は、言葉というものを愛しています。それによって喜んだり悲しんだり、妄想したり誤解したり、とても厄介なツールだけれども、言葉が、あんな小さな文字の組み合わせなのにも関わらず、うんしょ、と付随する物事を背負って現れてくれて、それによって救われてきたことも沢山あったのだから。だからたった一言の「言う」も「書く」も、大事にしたいと思いました。そしてたった一人に向けて始めたのだとしても、広がっていく他の人に対する繋がりや感謝を、放棄しちゃいけないと。

私の生きる速度にスピード感がないということ、だから自分の押したタイマーに追いつくために沢山言葉を無駄にしてしまう癖、日常の楽しい事や具体的な情報を提示するんではなく、観念的な事を取りとめもなくつらねてしまう癖、というのはある。あるし、それはブログ、という形態には向いていないかもしれないと思う。

それは正直わからないです。でもやってみて、違うと思う部分がある限り、変えていったりしようと思うし、変わっていくのだと思う。放棄した変わり方に関しては、もうしたくないと思う。

ネットという媒体に関わり始めたとき、それまでみんながリアルな場面で語り合わないような類の事を語り合い始めていて、これで少し楽になったり風が通ったりするんだろうな、と直感的に思った。それから随分時間が経って、中傷や攻撃や依存という弊害を経て、木の枝の先が細かく細かく広がっていく媒体へと成長した今、その先でぽそりとひらいた葉に感謝したいと思う。そうして、私もその小さな葉の一つとして、社会、というようなものと関わっているのだという感覚にも。少しずつ、変わっていく時代の真ん中にいるんだという実感、色々な分野の表現方法も変わり始めている。それらにどう向き合うか、やはり楽しんでいきたいと思う。変わる方向は様々だけれど、出来うる限り真摯でいたい。押し流されるのではなく。

このツールを使っていることで、少し前から、本来だったら再会できなかったかも知れない友達に沢山、また会うことが出来た。皆それぞれに葉を持っていて、お母さんになっていたりしている人もいて、日々の生活の、子育てのいっかん、そういったものに触れられて、とても感謝しています。

2010年4月22日木曜日

昆虫ロック 春バカ! 

先月のことなんで、それから会った人達とはぽつぽつ会話にのぼっていたんだけど
解散しちゃったよー、ゆらゆら帝国。

そいで大好きなアルバム「3×3×3」を聞きながら、それはまったく全部の曲が好きで、一言一言嗚咽まで好きで、好きすぎて涙が出てきた。
ああ何回しかこれまでライブ行けてなかったんだなーきっとこれからそれぞれ別の活動をして、それにふれることは出来るんだろけども、あのメンバーでの生の演奏はもう聞けへんのかなーと思ったら涙が出てきたぞ、くそー!
きのう電話で話してた友達ともいつか一緒にライブ行きたかったのに、いつか、なんてぬるいこと言ってたからくやしーやんか、もうそのいつかがないのかしらと思ったら涙が出てきたぞ。
つーか話す事が多すぎてゆら帝解散のこと言おう言おうと思いつつ言ってなくて、彼女もゆら帝めちゃ好きだから当然思ってるだろうし、今度会ったら言うんだろうな、でも私が言う言わないに関わらず、そんなことどうでもいいくらい、もう一緒に行けないんか。泣き。

ゆら帝ではないけど好きなこと、また別な事を交換してけばいいんだそうだそうだ、と納得させてみる。
させてみるがやはり、いいバンドだったよ、ゆらゆら帝国。一緒に生を聞きに行きたかったよ。

こうして春は泣き、泣きの春であるのだった!

なんですか情緒ですか思春期ですか、それとも脳内のアレですか。なんでもいいよう、そんなこと。

冬が苦手で、蓑虫状にぎゅっとなってるから、春になったら毎年そうなんで、毎年の春に毎年の反応をしてるだけで、これって私のいいかんじ。いいかんじ?
いいかんじかどうかわかんないけど普通の私。でもなんだかいつもとちょっと違う、似てるけれどもちょっと違う。

大学卒業後の3年、今年が4年目か。その間気が付かぬともちょびっとずつ削れていってて、なんとなくやばい感じ、だめな感じ、とうすうす思ってもだましだましの5年間がぶわっとふきだしてくるような涙でもあり、それ凝縮しちゃった二年間に気が付いちゃった。大学時代の宝である友たち、同居人、それら周囲の人の変化と不変化、自分の変化と不変化。でもあきらかに個々のことであり、私としては忘れていた大事なことに気が付いたのだった。これって大事なことで、でも大事なことに気が付くってことは、なんか別の大事なこととのさよならでもあって、心の奥のほうにしまってさようなら、大事なことはふえていく、一回大事になったもんはずっと大事だけど、それでもさようならはあるんだな。とか、今言葉にするのはこれで限界。

大学時代に日記をあのような恥ずかしい形で書いていて良かった、えらいぞ過去の自分。記憶は塗り替えて記憶されていく、記録は残っていて嘘も本気も、誰書いたのこれ、なんだけれども多分私が書いたわけで、おーいと過去の自分に手を振ってみる。考えてた考えてた寝てた怒ってた笑ってた泣いてた食べてた読んでた踊ってた。こうして思い出は今の私をがっと睨み、今の私の思い出として何べんも生まれ変わる。本物も偽者も虚構も思い出は、他者のように問い詰めてくる。ああ私間違ってました。でもおかげで気がつけたんです、ありがとう。ありがとうね!

悲しいとか苦しいとかうれしいとかやったぜとか、そんな一つの言葉で現れないものが液体になって流れ出す、それを涙という。

春の馬鹿はこうして私を突き落とす。いいもんも、さみしいもんも、ずるずると引きずって。

昨日天気が良くて、ちゃりんこ置き場に行ったら、一階の角部屋の庭が見えた。そこのお庭は三階の私んちから見下ろしてもいつも綺麗にしてあって、いいなーいい庭だーと時々見下ろしてたんだけど、ちゃりんこの鍵ガチャガチャしてふと目を上げたら、庭の角に植えられたチューリップが目に飛び込んできた。
ピンクとか黄色とか赤とか白とかのぷくっとしたチューリップが、咲きかけてたり咲ききろうとしたり、速度はばらばらなんだけど、住人さんが丁寧につんだんだろう煉瓦の花壇のなかで、伸びて、咲いて、とやっていた。それ見たら、なんかなんかもう、すっごいうれしくなって、いやうれしいのかな、わかんないけどなんか、どわっと暖かいもんがあふれてきて、涙が涙が涙が涙が止まらんくなった。

ここに引っ越してきたとき、同じ階の人とか、下の階の人とかに栗とかサツマイモを配りながら挨拶し、人の集まりで騒音出たらごめんなさいとか、きちんと前もって挨拶したけど怒られる時には怒られたりしてきてて、でもその一階の角の人はそのずっと後に引っ越してらしたので、面識はなかった。去年の暖かい頃だったか、「庭で流しそうめんパーティーをするのでにぎやかになってしまったらごめんなさい」という、丁寧かつ可愛いカードが郵便受けに入ってて、確かに朝から竹を割ったりしてらして、それで長い滑り台みたいの、高低差つけてつくってらして、楽しそうな声がしてた。
玄関にシーサーを飾ってるのがうちとかぶってて、郵便受け通るとき、覗くわけじゃないんだけど、や覗いてるんかこれ、窓の内側にお誕生日会に使う折り紙の輪っかみたいなのが見えてたり、キッチンの窓に小さい植木、東南アジアの雑貨がちらりと見えて、どんな人が住んでるのかなーお子さんいるみたいだなーとか思ってた。

そんな知らない人の家の庭に咲いてるチューリップによって、なんかすごくすごく、知らないご家族だけれど幸せであってほしいな、みたいな、余計なお世話、みたいな、気持ちにさせられて、なんか花とゆーものが美しくあるという当たり前の、みんな知ってるわそんなこと、なんだけど、すごくすごく溢れてきたんだよ。

そいで涙がとまらんくて、自転車乗りながらあのピンクとか赤とか黄色とか白とかの色彩がずっと泳いでて、
でも涙で良く見えないや、あはは、とか完全に気持ち悪い人になりながら、自転車こいで、公園つっきって、
サッカーしてる子供達にぶつからんように気をつけながら、でもばれてる、ガキに泣いてるのばれてる、むかつくわーと思いながら自転車こいで、目的地と逆に走ってることにようやく気が付いて、進路を変えた。

進路を変えることはできたけど、どこに進んでいくのかなーまた間違えちゃったりするのかな、やだなー怖いなーと思いながらそれでも進んでいるうちに、ちょびっと涙が渇いてきた。

みなさん知ってますか、春は、こいつは、馬鹿です。でもそれ以上に、私は馬鹿です。あはは。

2010年4月16日金曜日

配分。時、つまり人、モノ、事。

生卵に、かつおと昆布でとっただしを混ぜながら

ほうれん草のゴマヨゴシ
若竹煮
動物性たんぱく質のおかずがないから
桜海老のだし巻きを加えよう
同居人のお弁当をつくる時間なんだな今はと思った

私はイメージする
イメージっていうわがままな思い込み、をイメージする

30分後の自分がイメージできた

おやじの誕生日に送りつけるモノのセレクト
を、する時間

出すべきかどうか迷う手紙を書く
を、迷う時間

大好きな友達の恋の行方を想像する
を、勝手だなと自戒する時間

遠方の友からの着信履歴に答えよう
と、ソファに座る時間

風邪引きやすい人に会う時にタイの蜂蜜持ってくか
と、食器棚を開け閉めする時間

30分ごとに時間を配る
を、イメージしていたら

だし巻き卵の形がちょい、くずれちゃったけど
完璧なだし巻き卵を求める完璧主義は、くじけちゃったけど

まぁなんとか、時間は区切れた

私はトロい上に身勝手なのだから、誰かをイメージして
思い込みのわがままなりに、自分以外のモノコトを
配分してく

ってのは30分後の自分との戦いでもあるわけで

私はとりあえず今の私の味方になって
そいで過去の自分を裏切っていくわけだけど
それはせんないはなしだけど

カタツムリなので、切れ端のない蚊取り線香なので
全部を混ぜてしまうと焼けない卵なので
とりあえず戦って

そしたらお風呂に入って
リッチな発汗バスソルトのすーとするレモングラスの香りに沈静してもらい
戦った自分と和解して
裏切った自分をよくよくなだめて
三人、中むつまじく大好きな漫画を読もう

明日のためのストレッチ、死体のポーズ
区切った時間と自分の時間を分離させ

その繰り返しで配分は洗練されていくのかも

とか思いながらふと見ると
私が床にこぼした「水とりぞうさん」の
ぬるっとした水を
同居人が拭いている

ああ時間を区切る前に、やることあったの忘れていた

私も同じように区切られるために使われているのかもしれないけど

そういうのって、別に
しあわせちっく

かんしゃちっく

2010年4月6日火曜日

ミス・シリアス・ミス

何だか微熱におかされているような、あちこちがむずがゆいような眠れぬ夜が、夢に逃げられないようなぞわぞわとした夜が、やってきたなぁと思えばカレンダーの数字が、近眼以上の意味でぼやけていた。四月になっている、二ヶ月もたっている。

なにもなかったかと言えばいろいろあって、生きてるからある程度のことはあった!
ネットにつながない/繋げないという時期はたまにあるのだけれど、以前はあまりにサーバー不調が多く「ひかり」に変えたにもかかわらず、ときどき不調。でもこの二ヶ月はべつの物理的問題。

実家と京都を往復すること数限りなく、葬儀後における様々な処理で帰省、仕事があるので帰京、また帰省を繰り返す日々に、時々ネットを、特にメールを開くの怖い。
仕事関係は携帯なので必要にも迫られず、三回くらい見てみてみると、1200通とか、もう怖い。
スパムの間に大事な用件が隠れており、以前はエロ系のスパムもタイトルがおもろいとか、この短い件名欄に書くため必死で考えたんだろうとか余裕こいてにんまり、のち削除だったけどもうめんどくさい!

で、いろいろあったことは手書きの日記のほうにはメモってあるのだけれど、いくつかここに書きませう。

☆完結
 WEB破滅派のほうで連載していたのが完結しました。一個前の号です。
 『喫茶エリザベート』最終回 青井橘
 なんかもう、確かに大団円。かもしれません。
 ちょっとの間に破滅派法人化へ、雑誌のほうも六号へ。活気づいてます。
 六号にも掲載していただきたいけれど今書いてるの長いので、どうか検討中です。20枚のを新たに書くか。脳みそがどうか。とにかく編集の方、ありがとうございます!感謝です。

☆実の家と書いて実家。
 そう実家なのだった。盆暮れ正月法事その他、実家に帰るということを二十歳過ぎてしばらく「なし」にして生きてきたけれども、もういい加減、そういうの、やめよ、と。せっせと帰って手伝いをした。しかし葬儀の後のだだっ広い古い家に祖父が一人、父母はそこで同居を始めた。結局私の「実家」は空っぽになったのだった。帰ることの悲しさとか寂しさが和らいだとたん、「私の実家」は誰も住まない家になった。妙なかんじ。あの階段を誰かがのぼるときの軋みも、和室にこもった防虫剤の匂いも、結局一度も聞きも嗅ぎもせず、祖父の家という統合された「母の実家」で私は主に料理をしていた。母は自らの「実家」で暮らし始めたことで、祖母の不在を痛切に感じると「いたはずのひとがいないんだわね」ということを私に言う。なぜか私にばかり言う。
私は物置部屋や屋根裏で、祖母の古いネックレスやブローチを見つけ、勝手に「形見分け」として貰った。
形を見る、と書いて形見。いったいなんの「かたち」を見ることが出来るのだろうと少しわけがわからなくなり、「いたはずのひと」という言葉に跳ね返って、「いる」ということはどういうことなのかと思いながら大根を煮込んでいた。出汁の匂い。いるような、いないような。
「母の実家」は私が幼い頃預けられた場所であるのだけれどやはり実家ではなく、その他預けられていた様々な場所も実家ではなく、不在の空気にぼんやりとかすんだ場所に居場所がないのだとしても悲しくはない。なぜ実家は悲しいのかということについて、私は父や母に話さない。実家に帰ってほっとする、ということがなく、会話に含ませない物事があるのだとしても、いいと思うようになった。ので、帰ることも出来るのだろう。しかし忙しすぎて行きたいところにも行けず、友達にも会えず。今度はもすこしゆっくり「帰ろう」。

☆横、縦、斜め。
そんな感じで慌しく、疲れが溜まったのかなんなのか、悪質の風邪に見舞われた。確定申告関係のよもやまを処理しているときにかるい吐き気。「現実」のぎっしりつまった書類に関する潜在意識の拒絶とかいう変な論文のタイトルみたいなことが浮かんだが、まぁ税金、払ってるからね。しょうがないね。
翌日遠方(奈良)の仕事に向かう途中、目の前を無数の蝶々が飛び回るかのめまい、もう出るもんないよという激しい吐き気で、トイレへ駆け込む。時間という概念が吹っ飛び、電話の音も判断できない。これ、やばい方面だなぁと座り込む。仕事先にいけないかもしれんという初の試練。その仕事ではお世話になってるエージェントさんがいるわけで、責任問題が私個人ではなくなるので、ていうか個人依頼でも責任はついて回るのだが、この業界の信頼関係とか仕事先の構築にどれほど苦心されてるかを考えれば、申し訳なさ過ぎる。なんとかたどり着き、顔色の悪さを笑ってごまかし、やってるうちに体温が戻ってくる。体が自分のもとに戻ってくる。体調管理も含めて仕事であり、プロであるわけで、「プロ意識をお持ちですね」と言われればうれしく、私だって褒められて育ってきたのだ。プロとか、そう言えばかっこいいが、趣味ではなく仕事である厳しさが身にしみた。
ま、そういう苦労話はあれだけれども吐き気というのは、ほんとうにほんとうに、容赦ないのね。ゲリラ的かつ他人行儀。結局ウィルス性だったらしい。同居人は上からも下からも。斜めからも。
私は下や斜めはなかったが、あの座り込んだ四角い駅のトイレのあちこちは、縦が斜めに、斜めが横に。 

☆KIKOE、ない。
で、よくよく医者に聞いてみると、ウイルスがリンパから髄膜に「いきそう」だった、と。
で、よく思い返せば左耳があんまり聞こえなかった。目と耳に関しては弱点であり、これまでにも耳が聞こえないことは何度かあって、一度は仕事による肩甲骨の酷使で首の筋肉がおかしくなったとき、もう一度は耳の奥と耳かきに関する執着が度を越し、ようするにずぼずぼやりすぎて綿棒が禁止区域に突入したのだった。
今回のやんわりとした聞こえなさぶり、もその綿棒ずぼずぼかな、と思って耳鼻科で貰った薬をつけていたのだが、おさまってから発覚したのだった。いきそうだった、と。

なんやかんやで耳が不調になると音楽のことを思うのだが、今度は少し前に見た映画を思った。
『KIKOE』
大友良英の音楽活動に関するドキュメンタリーで、京都シネマでやっているのを友達と観にいった。
この映画で思い出す物事はいくつかあって、
一つは、山奥でぱちぱちと火を起こす横で語る声。音楽に関する映画なのだけれど火の燃える音がとても音楽的で、同様に舞踏家が体を動かすときにこすれる音、骨の軋みも音楽的だった事。
もう一つは、いわゆる前衛音楽の爆音を「インテリの下痢」と言ったのはヤン・シュヴァンクマイエルだったっけ?という疑問。
ものすごく沢山の人が出てくるので、誰が何を言ったかわからんくなったけど、この「インテリの下痢」という言葉が奇妙に残っているのだった。インテリ、というカタカナの単語はとても間が抜けていて、字ずらの絵的にも、カーブが同方向でつるっとしている。インテリジェンスと濁音を混ぜればまた違うのだけど、そういう言い方は古ぼけたオッサンくらいしかいまどきしないし。で、そのつるっとしていて間が抜けていて何者なのかよくわからない存在のものが、下痢をする、ということが何だか面白かったのだ。あんころ餅みたいな白くて中に何が入っているのかわからない存在が騒々しいものをひりだしている情景を想像してみた。不快さ、なのだろうけれど。
でも阿部薫のように時々痛くチャーミングな騒音もあり、結局のところ問題なのは、下痢をしてまで後にある沈黙、そのためにわざわざ爆音を流すというという作法が上手く機能するかどうなのではないの。語りかけることも答えることもない、コミュニケーション不可能な爆音時間の後の沈黙。人前で下痢をした本人のみがすっきりするような爆音ではなく、その沈黙を共有できるような時間があるのだったら、きっとそれのほうが音楽で、つまりは沈黙という音楽を求めるワザなのだと、爆音の下痢に関して思う。
で、それを言ったのはヤンなのか? 別に誰が言ってもいいんだけど、気になるのは、私がヤンを好きだからなんだけど。

もう一つは、なんらかのイベントらしきものの会場で、なにもしない男性が、来た客に「何を見に来たのだ?」と攻め立てる場面。しーんとしているし、その人なんか怒ってるというかきつい口調で、客はたじろいでいるように見えた。これは音楽でも映画でもドラマでもお笑いでも絵でも本でも、なんでもかんでも、何かが欲しいと表現を欲望する、待っている受け手に対するアンチなのか、と思った。例えば肉体労働のような読書、というか良くも悪くも自分の人生にコードをつなげることが、いいのか悪いのか、快楽なのか苦痛なのかなんて簡単にはいえないけど、私自身の中にある欲しがりさ、流れるような受け取りの楽さと、情報の多さのことを考えていた時期に見たからかもしれず、もうちょっと違うことだったのかも、と疑問。これも疑問。
でもそれ以上にやはり沈黙に身もだえする光景が残っている。

結局、沈黙なのだった。『KIKOE』から感じ取ったものは奇妙に沈黙となっており、ギターにはさまれた演奏者不在の椅子も、なんだかやはり沈黙なのだった。

耳が聞こえなくなると、その沈黙が逆に常におかされている。ボーンとかシュワーという小さな音が耳の奥でしており、発せられた音は不鮮明に、完全な沈黙は濁ってしまう。美術の仕事は視線を定めるので目を奪われる。見たいけど見えない。ただ壁のヒビとかカーテンのシミを見ていて、つまりはなにも見ていない。そのかわり耳は活躍してくれるはずで、鉛筆のすべる音や衣擦れ、木炭のけずれる音なんかで見えていないその場の空気を認識する。だから、仕事中に耳がボワボワしているのは結構な不便で、状況を認識できず、見えない以上にボーっとする。
仕方がないので、自分の内側に目と耳をやるしかなく、この映画のことを考えていたのだけども、鮮烈な沈黙は、実はよく聞こえる、ということなんだな、と聞こえない私は思ったのだった。

ああ願わくば、痛いキリキリした沈黙を共有し、そのあとぼそりと一言交わすだけで、伝え合うことができたらいいのに。それはきっとすごくエロティックで優しい時間のような気がする。

こうしてたらたら書くように、私は、私には、しゃべりすぎるか黙り込むか、それだけだから。

☆気持ち悪い
そんなわけで、今更のように「エヴァンゲリオン」にはまった。今まで見たことがなく、家では同居人が時々BGMのように流しているけれど、どんな話かも主人公と同居人が同じ名前であることも、綾波レイがなんなのかもフィギアがあることくらいしかしらず、等身大48万すげーとかいうレベルだった。
だいたい、90年代ほどつかみどころのない悲しい時代はなかった、と思っていたのだった。80年代もそうかもしれないけれど、それは良く知らない時代だ。95年とかって多分、テレビとか映画を見ていられる状況になかったのだろうけど、存在すら知らなかった。
ウイルスが去った後の休みの日、おとなしく体を癒しながら、なんとなく同居人のビデオをみていたら、むむ、と思った。ロボットではなく肉体、というところにまず惹かれ最初から見てみることにした。
そしたら見事にはまってまったよ。
結局DVDで見れるすべて、劇場版の『序』まで見たのだが、一番良かったのはラスト二話の映画版「Air/まごころを君に」だった。
このラストでアスカが「気持ち悪い」と言って終わる。気持ち悪い!!ああ、そう!
何も泣くことはないのに、泣いてしまった。三回見たけど三回泣いた。
気持ち悪い! ああ、なんということを!
映画『書を捨てよ町へ出よう』で、「もうすぐ映画は終わる。真っ白になったスクリーンと暗闇に君は取り残されるんだ」的な、つまりは二次元の世界は消えて個々の実人生が始まる、というメッセージがあるような実写の場面も良かったけれど、気持ち悪いとは!! この一言がガツンときた。そいでその横で主人公シンジがぐずぐず泣いているのも。
ATフィールドという「心の壁」←おいすげーな、を消して人間が融合し一つになるという人類補完計画を拒否したシンジは「再びATフィールドを手にすればまた他者の地獄が始まる」けれど、「もう一度会いたいと思ったことは確かだから」、他者も自分もいないゆえに「完全」である世界、全部あり、なにもない世界を放棄し、不完全な自己と他者のいる世界を選ぶ。こういうの、すごくダメなんだな。泣いちゃうんだな。
融合しようとするとき、シンジの表情は幸福そうだった。多分快楽なのだと思う。他者との融合は理想であり、夢であり、だから心地よい。でも、夢の終わりから現実が始まる。テレビ版のラストはそういった物事をストーリーやニュアンスで形作ることをしなかったのかできなかったのか、アフォリズム的に語っていた。あんたらそれぞれどこまで言うねん、くらいとにかくしゃべっていた。言葉でつむぐことしかやっていなかったのだけれど、その間の出来事を描いた映画版はすごくて、もうそのすごさが「気持ち悪い」に凝縮されていた、ぎゅっと。
アスカは、シンジのこと好きなのかどう好きなのか、嫌いも混じっているのかもだけれど、シンジを否定する他者でもある。肯定もするし否定もする。受け入れもするし拒絶もする。アスカ自身が一人の人間として存在する以上、そうだわ。絶対に、一つになることはできない。神様ももういない。
その不快さ。不安さ。寂しさ。困難さ。めんどくささ。そいで悲しさ。
他者を、世界を、完全に自分の内面には置き換えられないという断絶。
思い通りにならないなら殺してしまいたい、とアスカの首をしめるけれど、それも出来ない。
「何も出来ない」という他者との断絶にシンジはぐずぐず泣き、アスカは言う、「気持ち悪い」。
私はそのような絶対断絶の他者との関係とは、究極的には「気持ち悪い」ものだと思う。自分にはなりえない他者も、他者にはなりえない自分も、そうだからこそ触れ合いは「気持ち悪い」。けれどけれどだから異質な気持ち悪さを抱えながら向き合うから、「好き」になることも出来る。私とあなたが一つになり、同じものになってしまったら、私はあなたを好きになることは出来ない。
夢が終わると現実が始まり、現実は気持ち悪く、気持ち悪いは好きの入り口であるということ。
それらは、一つの道、一本の線の先に終着があるのではなく、輪のようにループして何度も繰りかえすんやろう。簡単に成長して解決などしない。自我が目覚め他者を見つけて大人になることが終わりではなく、ぐずぐず泣いて泣き止んで、その繰り返しの挫折と発見を繰り返していくことが「リアル」に生きる終わりのない話なんだと。

それから、双極性の友達が、エヴァが使徒を食う血の飛び交うシーンが、躁転しているときの自分を見ているようでつらいと言っていたことを思う。あのシーンは悲しかった。攻撃性の先端、それと融合の切れ端でもあるのかもしれないけれど、ヒトはあのようにむさぼりあうこともあるのだ。

気持ち悪い、にある優しさと、めったに使わない言葉であるところの勇気のようなものを感じて泣きながら、
泣きながら私は、ああ、そうだったな、と思った。
すごくすごく好きな人と抱き合って、物理的に一つになってもまた離れなくちゃいけない。
私はこのへんな私の体みたいなものを引きずって、ゴミ袋みたいに膨らんでいくぎゅうぎゅうの心も一人でひきずって、がまた始まるんだと思った時、それは初めてめちゃくちゃ人を好きになった時だった。
すごく好きで暖かいその人の中に入りたかった。こっちからインサートしたい。
りかちゃん人形くらいになって、でもまだデカイ、おまけのケロヨンくらいに、ああでかいわ、
結局一粒の細胞くらいになって、その人の細胞の一粒になったらいいのに、と思った。
完全に溶けてしまったら、わずらわしいこともなくなって寂しくなくなる。でもすぐにそれはめちゃくちゃ寂しいことかもしれんなと。溶け込んでしまったらもう、あなたの顔は見えない。話すことも話すことによるすれ違いもその修復も、や、もっとシンプルに、手をつなぐことも出来ないのなら。

だから一人でいるしかない、一人でいて二人でいよう、と思ったものだったな。